河合俊雄、内田由紀子編『「ひきこもり」考』

  北山忍「自己矛盾のメンタリティー」 日本の文化は、古来農耕を基盤にして発展してきたが、これに儒教・仏教といった基本的に人間関係を重んじる思想が加わって成り立ってきている。これらの日常の習慣はとても関係思考的で、思わず知らず、いわば自動的にまわりに注意がいってしまう暗黙の心理特性はこれに対応しているのである。他方、関係性を否定し、自分の利益を利己的に追求しようとする明示的な自己認識のほうは、メディアをはじめとするいろいろな情報源から得られた知識に基づいている。日本では明治時代より、西洋化するというのは、個人主義を取り入れることと表裏の関係だったわけだが、特に戦後、個人主義とは社会や人間関係を否定することだという考えが非常に強くなった。関係性とは「昔の」「古い」もので、これらの関係性から解放されることが近代化の要件であるといった議論が特にインテリ層を中心になされてきた。西洋の個人主義とは、個人の権利を根底において社会関係を作り上げる考えだが、すでに世間に埋め込まれ、関係性を前提として自己形成がなされている日本人にとって、「コジンシュギ」とはすでにある関係の「呪縛」から解放されることだったのだ。p.39 一つ思考実験をしてみよう。ここに関係性があって初めてやる気になり、関係性があって初めて目が輝き、そして関係性があって初めてどこに注意を向けたらよいか了解する人間がいたとしよう。ところがこの人は同時に、関係性のゆえに自分は本当の自分になれないでいると強く信じているとしよう。するとどうなるだろうか。まず試験で失敗するなど何か悪いことが起きると、これは何らかの関係性、たとえば、友達関係が悪いからだというように考えるだろう。すると、何とかして関係性を切り捨てようとするだろう。しかし、関係性を切り捨ててしまうと、やる気も失せ、注意も散漫になり、目から輝きも消えてしまう。そこでますます悪いことが続けて起きる結果になる。実際の原因は、自分の暗黙のメンタリティーを了解せずに関係を否定してしまっていることにあるのだ。だから、関係性を回復したらよい。しかし、すべての諸悪は関係性にあると信じているから、当人はそうとは考えず、ますます関係性を切ってしまう。これは悪循環である。暗黙のうちに関係志向の人が明示的信念として関係性を切り捨てると、きわめて深刻な結果が生じると予測できる。p.41 日本人において、自動的な自己制御は、関係志向的であり、関係性があると自己も安定してくるし、注意が向く対象があるし、やる気も起きるし、幸せにもなることは前掲のデータからも明らかである。このようなプロセスは、自動的で、多くの場合無意識である。それというのも、長年の歳月を経て積み重ねられた文化の習慣が日常の経験を通じて内在化してきたからである。同時に意図的な自己制御のシステムでは、独立的または少なくとも非関係思考的といった自己意識をもつことになる。関係性を否定して、それをもって自立する、あるいは個人主義を遂行しようとする。この二つのシステムの乖離が、現代日本文化の揺らぎと結びついているのだと考えることができる。p.42 ・ビナイ・ノラサクンキット『「ニート・ひきこもり」についての社会心理学的考察』 ニート・ひきこみりになるリスクが高い学生は失敗のフィードバックを与えると課題を継続する動機づけは低くなり、逆に成功のフィードバックを与えると、動機づけが強くなる特徴をもっていることが示された。(…) この傾向から、社会に適応している日本人は、特に失敗に遭遇した際に、自己の改善を目指して努力しようとする動機付けをもっていると考えられる。マーカスと北山の理論によれば、北米など、個人的目標を優先する社会は、自己が相対的に他者や環境から区別される「相互独立的自己観」を発展させる傾向があるという。相互独立的自己観では、自己を他人と区別し、自己のポジティブな側面を強調する傾向(自己高揚動機)が顕著であるのに対し、相互強調的自己観では、人々は社会的調和を維持しようとし、自己を状況や基準そして関係に合わせようと努める。したがって、個人的行動と社会的に期待される行動の間のギャップを埋めるために、自分自身の欠点に注意を払い、その欠点を努力によって直そうとする。これは自己向上動機と呼ばれるものである。p.73 *** なるほどー。超越者との関係が背景にあった西欧社会において、「近代化」や「個人主義」というものが超越者との関係を断ち切って、個人の権利を根底として社会関係を再構築していくということ試みであったのにたいして、もともとそのような縦軸がなく、横軸の関係性が重視されていた日本社会においては、「キンダイカ」や「コジンシュギ」というものは神との関係ではなく横軸の関係性をぶったぎって「解放」する動きだったのか。 一口に「近代化」といっても背景とする文化や宗教性が違うのだから、日本と西欧における「近代化」は違った意味合いを帯びるのだろう。村上春樹の小説の登場人物に代表されるポストモダン的状況、言い換えたら超越者との関係も、共同体との関係も、土地との関係も切り離された根無し草の状況というのは、だからこそ日本において特に深刻になったのかもしれない。 では、西洋における個人主義には「人権」というものを根底において社会を再構築していこうとする足場があるのに対して、日本における「コジンシュギ」は何を足場において社会を再構築しようとしたのだろうか。 それはおそらく「人権」でも「超越者」でもなく他ならぬ「個人主義」を足場において「コジンシュギ」を実現しようとしたのだろうと思う。「コジンシュギ」の実現においては、共同体というものは解体すべき悪しき横の「呪縛」とされたのだけれど、その解体の過程において土台とされたのが、西欧文化の「個人主義」という別の横軸であり、そのどちらも相対的であるという点で本質的には変わらないのではないか。 「個人主義」を真似て日本型「個人主義」を実現しようとしてみてはいいけれど、待っていたのは暴力的なまでの他者との切断であった。他者、つまり超越者や土地や自然や共同体や死者との関係が切断されて、誰もが都市の匿名的な漂流者になり、長き漂流の末、行き着いたのがポストモダン的「コジンシュギ」だったのだろう。 ポストモダン的状況においてコミットすべき価値などは存在しない。全てが相対的で、相対的だからこそ多数の重視する価値というものが暴力的なまでに重要性を帯びてくる。正しいことは「一番多くの人が現在正しいと信じていること」(p.24)に他ならず、常に状況依存的である。 そのような状況下では多くの人が二ヒリスティックに保身と自己利益の追求に明け暮れるのも必然だろう。価値はすべて相対的で、どのような価値にもコミットできないのだから、「理想」など持てるはずもない。重要なことは「現状」であり、未来は「現状」から判断して、「現状」の部分修正を繰り返した結果、漂着するであろう偶然のものでしかない。 そして新自由主義も「コジンシュギ」の一つの極端な形態だと思われる。絶対的な価値というものが存在しない以上、個人が自己利益を際限なく追求し続けることを誰も咎められないし、その利益を社会に還元することを求めることも難しい。個人の成功は完全に個人の才能と努力に依るものであり、同様に個人の失敗も個人の能力と努力の不足に依るものだと考えられる。 さらに問題なことに、日本型「個人主義」は著者が「コジンシュギ」とカタカナ書きするように個人主義にはなりきれていない。個人主義を真似て横の関係性をぶった切ってみたはいいものの、著者が言うように根っこの部分は関係志向なのでその矛盾に引き裂かれることになる。自立を志して「悪しき」関係を断ち切ってみても、結局は関係をぶった切った相手からどう見られているのか気になって仕方がない。 結局のところ、問題は「どこを定点とするのか」ということであり、西欧社会においては「超越者」を定点とする伝統があり、日本社会においては「共同体」を定点とする伝統があったということなのだろう。近代化はその縦軸、横軸どちらともぶった切って「個」の確立を目指したのだけれど、その限界はすでに露呈してしまっている。勇ましく関係を切ってはみたものの、そのあまりの心細さと虚無感に多くの人が耐えきれなくなっている。結局は縦軸や横軸との関係を再び回復していくなかでしか、本当の意味での自立というものは難しいのかなと感じる。