以心伝心

2016/5/9

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 茶道の場でのコミュニケーションのあり方をみていると、現代社会で求められるそれのあり様とはまた異なる、別種のコミュニケーションが交わされているように思われる。 現代日本は西欧文化の影響を色濃く受け、生活のあり方もコミュニケーションの手法も明治以降とてつもないスピードで変化してきた。これまでの社会の集団主義的なあり方を見直し、西欧的な「人権思想」や「民主主義」を取り込んだ近代的な「個人」による市民社会を築こうとしてきた。現代の日本人をみても、たしかに個人の自由というものは尊ばれているし、自分の意見を主張することや、自らの意思によって他の人とは異なる独創的な試みをすることは一般的には「良い」行動であるとされている。 しかしながら明治以降250年近くたった今でも、実際には我々はそのような近代的な強い「個人」となることに対してどこか馴染めず、西洋的な意味での他者と切り離されたままで存在する特異な存在としての「私」というものになりきれないでいるように思う。そもそも日本語において「人間」というものが人の間にいるものであると定義されており、英語における「individual」(これ以上分けられない最小単位)や「identity」(自分の同一性)に対応するような言葉がなかったことをみても、他者から切り離されたままで存在する「私」=(I)というような意識は日本人にとってそれほど自明のものではなかったといえよう。それはおそらく、日本ではキリスト教における神との一対一の関係という伝統が見られなかったことにも起因するであろうが、いずれにせよ私たちは常に他者との関係のなかで自己を措定するのであり、自己と他者は常に完全には切り離せない関係にあるといえる。 このように日本においては西洋的な意味での個人主義というものを本当の意味で根付かせることは難しく、他者との関係や「場」というものが常に重要な意味を持つのであるが、残念なことに現代においては個人主義とは真逆の方向性である集団主義が、日本の「伝統」であるとして声高に叫ばれるような状況が散見される。空虚なナショナリズムの高揚や、社会的マイノリティの排除といった問題が「伝統」の名のもとに行われるような時代状況にあって、「伝統」というものが持つ意味について再考することはますます重要性を帯びてきているように思う。 私自身、茶道の経験はほとんどないが、僅かながらに茶道や坐禅の体験をした際には、不思議なほどに他者、あるいは自然と自分の身体が同期していくような印象を受ける。いくら言葉を尽くして他者と理解し合おうとしても、互いの立場の違いが明らかになるばかりで断絶が埋まらないことは多いが、茶席や坐禅会では多くを語らずとも、すっと他者と繋がれるようなところがあり、言語を介したコミュニケーションとは別の他者とのつながりの有り様に気づかされる。 国際化する時代状況にあって、自分の意思を積極的に他者に伝えるということが盛んに求められているが、西欧文化に盲目的に同調し根無し草とならないためにも、これからは「以心伝心」といった身体化された日本的なコミュニケーションの有り様を、近代的な「個人主義」や「人権思想」と共存させていくことが求められよう。「以心伝心」といった形のコミュニケーションのあり方は、多くを語らずとも他者と繋がりうる可能性というものを前提としており、その根本において相異なる他者との共生を目指す、人権思想や民主主義といった近代的価値と矛盾をきたしそうに思えるが、果たしてこれら両者を共存させることは可能なのであろうか。「以心伝心」と「多様性の尊重」という一見矛盾してみえる両者の間に、通ずる点や共存可能性は果たしてあるのであろうか。 以心伝心といった他者との繋がりの有り様を、辞書的な意味で理解したつもりになることはさほど難しくないであろうが、それでは「伝統」の一側面のみを拡大解釈して都合よく現代に当てはめるような態度へと繋がりかねない。国際社会においていかに相異なる他者と共存していくかということを考えていくためにも、「以心伝心」という「伝統」的な他者との繋がりの有り様の価値を問い直し、どう現代に生かしていきうるのかを観念的にではなく、自らその場に身を置くなかで考えていく必要があろう。