Why is philosophy important in 21 century?

今年度、ミニレポート等々で文章を書く機会が多かったので少しずつまとめたい。 2016/4/25

*** 自然科学はその始まりにおいて、キリスト教的な一神教的世界観と強い関係を持ち、ニュートンにしてもガリレオにしても、物理的な因果性を問題としつつも、その根底には神が創造したこの宇宙の秩序・摂理を記述したいという信仰にも似た想いがあったように思う。そこで彼らは超自然的、あるいは教会の権威に基づいて森羅万象を説明するのではなく、神と人間、あるいは人間と自然を切り離し、万人に共有可能なかたちで宇宙について記述しようとしたのであるが、その背後には絶対者が存在し、意味、目的、善悪といった非実在的な問題に関しては絶対者の存在を前提とすることによってその価値が担保されていたといえる。18世紀以降には自然科学はさらなる手続き・手法的洗練をみせていくのであるが、一方においてその共通の手続きのうえでは説明し得ない神話的・宗教的要素については偏見や迷信として排斥され、絶対者のように非実在的な因果性を引き受けてくれる主体は社会の中心から姿を消してしまうこととなる。このような啓蒙思想は自然科学の発展には大きく寄与してきたといえようが、これまで神話や宗教が担ってきた非実在的問題を検証不能な問題として棚上げしてしまったことにより、様々な諸問題を副次的に産む結果となった。 たとえば倫理の問題。キリスト教が権威として磐石なる基盤をもっていた時代には、弱者を救済すること、あるいは享楽的な生活を送らず質素倹約することは「善」なる望ましい行為であるという社会的な合意が得られていた。一神教的な明確な教義をもたない日本のような国においても、より生活に根ざした俗化したかたちであるとはいえ「ご先祖様に恥ずかしい行為はできない」といったようなある種の倫理観といったものは確かに存在した。もちろんそのような社会状況にあっても、自己利益のみを追求しようとする人間は少なからずいたであろうが、そのような行為を望ましくないとする社会的な圧力によってある程度にはバランスが回復されていたと思われる。しかしながら現代にあっては、思想信条の有りようは基本的には各人の自由に委ねられており、社会全体として目指すべき方向性に対して社会的合意を得ることが極めて難しい状況にある。明確なる倫理規範がない以上、法律の枠から外れない限りは、誰がどれだけ自己利益を追求し他を搾取しようがそれを倫理的に非難することは難しく、哲学者がいかに崇高な哲学体系を築こうとも、相手から「私には私の考えがある」と言われてしまえばそれまでのことである。不平等の問題にしても、倫理的なアプローチによって合意を得ることは極めて難しく、格差を推し進めることが社会全体の不利益に繋がるという明確で反論の余地のない社会科学的結論が得らたり、あるいは実際に経済的な打撃をうけてこれまでの方針を反省する動きが生じてこない限り、当分のあいだ社会的合意は得られないのではないかと思われる。つまり、これからの時代においては、倫理といった理念的な問題ですらも、それを論じるためにはなんらかの実証性、つまりそれを共有することによって社会秩序の安定性が担保されるなど、実際の公共益に繋がることを示すことが必要となってきているのであり、そうでない純粋に思弁的なものは共感する人だけが共感するだけのものとなってしまって、社会的断絶を埋めることは不可能ではないにしても極めて難しいのではないかと思われる。あらゆる価値が相対化し、全てが等価なまま並列する時代状況にあって、それでもなお社会全体を統合し、これからの行き先を指し示しうる価値はどのようなものとなるのか、それを多くの人間に共有可能なかたちで提示していくことが21世紀の大きな課題となろう。 次に意味や物語の問題。講義にもあったように非物質的な意味での因果関係に対して現代の自然科学はあまり多くのことを答えてはくれない。たとえば、我々が身近な人を亡くした場合、医学的な意味での死因については説明がなされるであろうが、なぜその人が亡くならなければならなかったのかという本人の切実な問いに対しては誰一人として明確なかたちで答えることはできない。かつての世界においてそのような問いに対する明確な答えが存在したのかどうかは分からないが、少なくとも超越者との、あるいは祖霊との関係のなかで現世の出来事の意味を問い直し、物語を構築していく余地というものが残されていた。しかしながら現代では、神も祖霊も死後の世界の存在も公の前提とはされず、現実は単層的になりあらゆる物事の意味づけは全て個人に委ねられることとなる。これは近代化の当然の帰結であるとはいえ、個人にとっては途方もないほどの負担である。 大きな物語がまだ社会的に力を持っていた時代には、現実の生活がいかに悲惨なものであろうとも、少なくとも超越者や彼岸との関係のなかで現実をある程度は相対化させて余裕をもつことができた。しかしながら啓蒙された意識のなかにあっては現実は世界のただ一つのとり得るかたちとして個人の上に重くのしかかってくる。極端な場合には、個人の不遇はすべて個人の行動の帰結としてみなされ、個人はそのすべての責を負わされることとなる。もちろんこのような状況にすべてのひとが耐えられるはずもなく、現代ではその真逆のベクトル、つまり宗教や国、会社やイエといった集団に盲目的に同調することにより自我意識の危機を防ぐような原理主義的な動きすらも散見される。宗教や神話が担ってきた意味や物語の機能を廃して、それをすべて個人に担わせることなど果たして可能なのであろうか。近代的個と原理主義の両極に分解するような時代状況にあって、このような問題はより切実さを増してきているようにみえる。 最後に人間の主観の問題。人間の主観的意識をどう取り扱うかという問題は非常に古典的問題でありながらも、普遍性を志向する近代科学が常に手にあまるものとして持て余してきた問題でもある。絵画にしても音楽にしても文学にしても建築にしてもおおよそすべての芸術活動にはすべて主観の問題が絡み、これらの問題では科学的手続きのみによって客観的な評価を下せるようになることおおよそ考えにくい。現象学はこのような人間の意識の問題を取り扱い、従来の科学的枠組みでは捉えきれなかった領域へと地平を広げていったのであるが、やはりその学問の発生の起源からして、その知見の他者との共有可能性というものが大きな問題となる。現象を追うことによって新しく見えてくる部分は多くとも、それが永遠普遍の真理であると断定することはできず、ここでも再び合意形成の問題が立ちはだかる。ユングフロイトらの深層心理学が一定の説得力を持ちつつも、純粋な意味での科学とはみなされず学問における主流とはならないのも、その手続き的難しさと他者との共有可能性の問題が払拭しきれないからであろう。哲学者が貧乏なのは概念の検証不可能性に起因するという話が講義でもあったが、同様のことは芸術家や深層心理学者にもいえ、提示するものの価値を測る普遍的尺度がないために、それが受け入れられるかどうかは投げてみるまで分からないということになってしまうのである。 もちろん芸術分野では他者との共有可能性を高める手続きが一切ないかというとそのようなことはなく、建築に限っていっても古典主義のようにオーダーによる均整や調和を重んじては普遍を志向する動きは古くからあり、幾何学的形態や機能性を重視するモダニズム建築も同様の志向を持っている。しかしそのような普遍主義の形式性は時に均質で非人間的であると批判され、それに対峙する動きとして有機性、あるいは情緒や感性といった人間の主観を重視するロマン主義の動きが常にでてくるのであるが、このようなロマン主義の動きは、現象学や深層心理学と同様に常に共有可能性の問題にぶつかって勢いを失ってしまうのである。 生命感に満ち満ちた現象学的記述が多くの人を惹きつける。それと同様に、有機性や人間の主観を重視するロマン主義も多くの人を魅了するのであるが、残念なことにそこには共通の手続きというものが存在せず、多くの場合においてその共有可能性は偶然、あるいは作家の天才に委ねられてしまうこととなる。それゆえ世の主流は普遍主義へと傾き、人間の内面や意識といった検証し難い問題に関しては再び棚上げにされかけている。 現象を追いつつも、それをいかに集合知へと繋げていけばいいのであろうか。あるいはまた、内在的な問題をいかに外在的な問題と関係づけていけばいいのであろうか。現状においてはこれらの問題の間にはまだ大きな溝が横たわっているが、これらを橋渡することによってしか二元論は克服できないであろう。内部について語ることが外部について語ることに繋がり、外部について語ることが内部について語ることに繋がるような、俳句にも似た学問が生まれてくれば21世紀は非常に面白い世紀になるように思う。