資本主義、民主主義の抱える問題とこれからの社会システムについて

 

2016年12月12日

一部内容重複

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2000年代に入ってからというもの、かつてのような「一億総中流」意識は遠い過去のものとなり、特にリーマンショック以降は格差の問題は国内外問わず前景化し、様々な地域で同時多発的に極右勢力が台頭するなど政治状況も極めて不安定なものとなってきている。現代においては資本主義、民主主義あるいは国際協調主義といった20世紀的な価値の根本的な問い直しが迫られているのであり、先が全く見通せない移行期的混乱の時代に突入したともみなすことがでよう。

しかし現実には既存のシステムが矛盾を孕んでいることは多くの人が認識しつつも、これからの社会システムをいかに構築していけばいいのかということに対する合意はほとんど得られないままであり、現代ではその問題を抱えた既存のシステムにおける部分最適を目指すこと以外になんら次の方向性が見いだせない状況にある。かといってこのまま既存のシステムの方向性を推し進めていけば、その矛盾は一層膨らんでいつか大きな破綻をきたすだけのことであり、これらのシステムの限界を認識し新たなシステムを再構築していくことはもはやイデオロギー的対立に留まらない逼迫した課題となりつつある。以下では、資本主義、民主主義など現在のシステムが直面する課題や限界を整理するとともに、今後の社会システムのあり方について微力ながらも考察していきたい。

・資本主義の抱える問題

そもそも資本主義とは資本が自己増殖をしていくところにその大きな特徴がある。それは、資本主義が常に開拓していく「フロンティア=周縁部」を必要としているとも言い換えることができよう。

戦後、高度成長期のようにに冷蔵庫、車、テレビといった耐久消費財に代表されるような「モノ」が不足していた時代においては、製造業などに投資しては利潤を得るというスタイルが一つのスタンダードであった。さらにそのような成長スタイルは二割の先進国が八割の途上国からエネルギーや人的な資源を安く買うことを前提としており、そのことによってのみ先進国の全体としての成長というものが成立していた。成長には資源の消費が不可欠であり、それゆえ途上国が近代化され先進国と同じような生活を目指せばその人口分だけエネルギー消費が倍増していくことに繋がってしまい資源が不足してしまう。現実には途上国が途上国であってくれたゆえに、先進国は全体として経済成長ができたのであり、これから同じように新興国が発展して地球全体として半永久的に成長していくことなど資源が無尽蔵に存在しない限り有り得ない。

さらにそのようなかたちの実物投資による利潤の追求は、モノが豊かになり市場が飽和してくるにつれ利潤率が低下し、資本の拡大再生産ができなくなっていく。そのような資本主義の限界は70年代頃にはすでに見えていたのであるが、そこで資本主義が自己延命するために見出した方策は、電子・金融空間という仮想空間の創造である。これはITと金融自由化が結びついてできた空間のことであり、これによって資本は瞬時にして利潤を得ることが可能となった。70年代半ばにおいてすでに実物投資による資本の拡大はすでに縮小傾向にあったが、80年代では個人の貯蓄率は比較的高く、これから時代が大きく変わっていくような期待もまだあり、土地や証券といった新たなフロンティアを探しては、それが値上がりし続けていくという神話のもとにマネーを注ぎ込んでいった。これによってバブルが引き起こされ、資本主義が正常運転しているかのような偽装を図ったのであるが、そのような虚偽はすぐさまバブル崩壊といったかたちでその矛盾を露呈することになる。バブルの生成過程において富が偏在していく一方、バブル崩壊によって企業は解雇や賃下げなどリストラを断行させ中間層は没落し、格差は拡大していく。その結果、購買力が落ち消費は落ちこみ、それへの対処という名目で超低金利国債の増発が行われ、資本の自己増殖のためにバブル経済も厭わなかった結果、超低金利に陥るという矛盾に至るのである。

しかしながらそれでも資本主義は自己延命を図ることをやめず、バブル崩壊後も資本は新たなる「周縁」、つまりは資源の収奪先を探し求める。その対象はかつては端的に途上国であったのだが、途上国が新興国に転じ満足できる利潤が獲得できなくなると、新たなる中心/周縁の構図の組み替え作業が必要となってくる。グローバリゼーションが進展し資本が国境をやすやすと越えていく現代においては、その対立を国家間の対立としてのみ捉える必然性もなく、それは国家の内部における二極化の構造としても現れてくる。その収奪の対象となったのは米国でいえばサブプライム層であり、日本でいえば非正規社員である。リーマン・ショックは先進国が実物投資では成長できないがゆえに、ヴァーチャルな空間で無理な膨張(高レバレッジサブプライムローンなどの欠陥金融派生商品)をさせた結果、それが破裂して起きたと言われるが、そのようなかたちで周縁部に無理を強いない限りにこれ以上の成長が望めないほど資本主義は末期的なのである。昨今の労働基準法規制緩和ホワイトカラーエグゼンプション、カジノ法案等々もすべて資本主義の延命のための新たなる周縁部の開拓として捉えることができよう。

・民主主義の抱える問題

では民主主義についてはどうであろうか。現代の民主主義の問題として、グローバリゼーションにより様々な分野で絶えず世界的な影響に晒されるため、国民国家という枠組みそのものが相対化しつつあるということが言われるが、それと同時に現代において大きな問題となっているのが、「公共」あるいは「社会」の存在に対する意識の希薄化である。

かつてトクヴィルが指摘したように民主主義がうまく機能するためには、国家と個人の間における中間共同体の存在というものが重要になる。アメリカにおいてはそれは教会などの中間集団がそれに該当するであろうし、日本においてはかつては地域共同体のようなものがそれに該当したであろうが、現代においてはそのような中間共同体はことごとく解体され、国家と個人が中間領域の介在なしにいきなり向き合わざるを得ないような状況が組織的に作り出されている。かつては会社という組織もひとつの公共圏であり得たかもしれないが、終身雇用は崩壊し成果主義が導入されつつある現代の雇用環境では営利活動とは直接関係しない公共精神を涵養する場として会社組織が機能することは考え難いであろう。現代では「社会など存在しない」を地でいくような状況が続いているのであり、「公共」という意識そのものが危機に瀕しているといえる。ましてや日本はかねてからアメリカ型の小さな政府路線で、社会保障は公共事業投資などによる職域ごとの雇用保障で賄ってきたところがあるが、右肩上がりという資本主義の夢が限界を迎えると同時に、「終身雇用」というある意味における日本型社会保障システムも崩壊の危機に瀕している。現代では経済成長、終身雇用、中流意識といった昭和的価値すべてが限界を迎えているのであり、格差は拡大し、個人は完全にセーフティーネットを失ってリスクの高い生活を余儀なくされている。

では早急に相互扶助システムの再構築を、と言いたいところであるが、先にも述べた通り現代においては「公共」の意識自体が危機に瀕しているため、自らに関係するかどうかもわからない社会保障の費用を多くの人は負担したがらない。ましてや一億人を超える国家内での再配分となると、公共圏が広すぎて自らの負担がどう役立てられるのか想像し難いし、収めた税金が適切に使われるかどうかにも強い不安が残る。それゆえ新自由主義的な自己責任論が勢いをもち、むき出しの個人がそのまま社会に対峙するような状況がうまれ、社会的に溜まった不満は公務員、在日朝鮮人生活保護受給者、人工透析患者等々、その都度見つけられた攻撃対象にぶつけられることとなる。政治家もそれを利用し、システムの再構築といった難しい問題に取り組むよりも、対立を煽ることによって支持率を高め自己延命を図る。現代はあらゆる場面で既存のシステムが末期的兆候を示しており、近い将来、大きな破綻が目に見えた形で現れてきても決して不思議ではない。

しかしながら、悲観してばかりはいられない。21世紀の社会のありようを本気で考えなければならない時期に差し掛かっている。イギリスのEU離脱、トランプやルペン、ドゥテルテら極右勢力の台頭等をみても、世界がこれからますます内向きになっていくことは想像に難くない。経済成長が止まり自分たちの生存も脅かされているような状況で、自由、平等、人権等々、近代的なリベラルな価値の重要性をひたすら説き続けてみても国民的統合は決して果たせないであろう。

かといって必要以上に内向きになる必要もない。最近のテレビ番組によくあるように日本人の民族性をことさら強調しその純粋性を自明視するかのような言説は、さすがに時代錯誤であって差別を助長するようなものにしか思えない。必要なのはそのようなあからさまにフィクショナルな公共性ではなく、より身体実感に近いかたちでの手触りのある公共性である。その意味でも、中間共同体の再構築は必須となってくるであろうし、それなくして現代の根無し草状況を脱却するすべはないであろう。つまるところ、現代で必要なのは小規模、中規模の公共圏であり、個人と国家の暴力的な媒介ではない中間集団を介した段階的な媒介である。その具体的かたちはまだはっきりとは見えてこないが、おそらくは伝統的な地域を軸としたものというよりも、教育あるいは宗教を軸としたものになるであろうと考えている。

そして内向きの方向性が強まっていくであろうことは経済においても同様である。現代のグローバル資本主義は国内外における格差を助長するばかりで必ずしも人間を幸せにしないことに多くの人が気づきつつある。TPPのように自由貿易を推進する方向で得をするのはほとんどの場合において資本側であって、多くの国内産業はそれによって疲弊し、中間層は周縁へと追いやられることになる。国内にあるかどうかもわからない資本のために国民が犠牲を強いられることはあまりにばかげており、このような不公正感がグローバル資本主義に対する反動の動きを生じさせても決して不思議ではない。

そして、経済成長率という数字に固執することも同様にばかげている。近代化が一定以上果たされた国において経済成長が止まるのは必然であり、それを絶対視すれば新たな破壊と収奪が必須となる。資本側からみれば資本主義が自己延命を望むのは当然かもしれないが、その延命のさせ方にも明らかに無理が生じてきており、このまま行けば新たなバブルの生成と崩壊を生み、再び中間層が周縁へと追いやられることとなる。経済成長を前提として作り上げたシステムを再構築することは難事ではあるが、それを避けてインフレ目標公共投資法人税の減税や規制緩和などこれまで通りの成長戦略を推し進めていくのであれば、いつかシステムに破綻をきたし次世代に途方もない負担を強いるだけのことである。

政治的に見ても経済的にみても明らかに風向きが変わり、移行期に差し掛かっている。成長やウィンウィンといった20世紀的価値が実際にはある期間ある地域においてのみしか起こらない限定的なものでしかなかったことが明らかになりつつある。「ふたつよいことさてないものよ」。これからの時代、本気で考えなければならないのは成長でもウィンウィンでもなく、痛み分けの手法であろう。

参考文献

C.ダグラス・ラミス(2004)『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』、平凡社

ポール・クルーグマン(2008)『格差はつくられた』、早川書房

佐藤拓己(2008)『輿論と世論 日本的民意の系譜学』、新潮社。

宇野重規(2010)『<私>時代のデモクラシー』、岩波書店

マウロ・カリーゼ、村上信一郎訳(2012)『政党支配の終焉 カリスマなき指導者の時代』、法政大学出版局

水野和夫(2014)『資本主義の終焉と歴史の危機』、集英社