シンギュラリティと人間

 

2016年12月26日

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 人工知能が人間の能力を超えてしまうという問題は、昨今盛んに議論されているが、現在の時点ではそれが人間生活にどの程度の影響を及ぼすのかについての予想は論者によって様々であり、それが人類にとって脅威となるものなのか、それともその幸福に資するものになるのか判断することは難しい。ただ個人的な印象としては、シンギュラリティによって様々な場所で雇用が失われ、多くの人間が路頭に迷うというシナリオは十分にあり得る話のように思える。

 人間の手によって作り上げた機械が、人間の雇用を奪ってしまうというとなにか本末転倒なディストピアのようにも聞こえるが、経営者がコストを最小化しようとすることは当然であり、そうでなければ市場における競争にも勝つことができないため、仮に人工知能のほうが人間よりも能力的に優れコストも安くなるのであればそれが人間の雇用にとってかわるのは必然である。これまではグローバル化によって企業が途上国に工場を移転し、本国での雇用が減ってしまったことが問題とされたが、今後は人工知能による雇用の喪失も深刻な問題となっていくであろう。

 次の時代における雇用状況の不透明性は、たとえば行政の進める「超スマート社会」の取り組みにもよく現れている。「超スマート社会」は一言でいうのであれば、必要なモノ・サービスのユビキタス化によって活き活きと快適に暮らすことのできる社会のことであるとされ、これは「狩猟社会」「農耕社会」「工業社会」「情報社会」に続く次なる社会のかたちとみなされている。しかし少し考えてみれば分かるように、狩猟・農耕・工業・情報といった先の四者はすべて人々の職業の形態を問題としているが、超スマート社会は職業の形態については問題としておらず、産業構造がどう変化しているのかについては不透明である。第28年版科学技術白書によれば、超スマート社会で活躍できる人材は(1)最新技術に精通した人工知能技術者、(2)データサイエンティスト、(3)サイバーセキュリティ人材、(4)起業家マインドのある人材とされているが、このような人物はおそらくは全人口の数%未満の極めて限定的な人材であり、その他の一般市民がどのように生活しているのかについてははっきりとは見えてこない。仮に超スマート社会がシンギュラリティに到達した社会だとすれば、一般市民はそれの到来によって多くが失業してしまうのであろうか、それとも実際にはそれほどドラスティックな変化は起こらず現在の職業の多くは残り続けるのであろうか、これは非常に予想が難しい問題である。

 そうはいってもやはり人間にしかできない事柄は多く、そう簡単に多くの人間が失業したりはしないであろうと楽観したくなる気持ちもあるが、テクノロジーの発達により必要性がなくなった職業というものは現在の時点においても数多く存在する。たとえば駅の改札の係員は自動改札の導入によって、電力会社の検針員はスマートメーターの導入によってその存在の必然性が疑われ、最近では大手スーパーのレジ係もセルフレジの導入によって人数削減が目論まれている。タクシーの運転手も自動運転が可能となった将来、失業する可能性もゼロではないし、ビルの清掃員などについても同様のことが言えるであろう。

 かといって失業する可能性が高いのは単純作業を繰り返す労働形態だけであるかというとそうとも言い切れず、研究者、学芸員、エンジニア、エコノミスト精神科医、作曲家、ファッションデザイナー、小説家、シナリオライター等々、高度の専門性や創造性が必要とされる頭脳労働こそが人工知能によって代替されやすく、手先の器用さが求められる職業のほうが生き残る可能性が高いと見るような向きもあり、シンギュラリティの到来によって職業形態がどのように変化するのかについて見通しを立てることは極めて難しい。辛うじて言えそうなことは情報を主だって扱う職能よりも、サービス業や一部の営業職や管理職など対人関係を主だって扱う職能のほうがその影響を受けづらいであろうということぐらいであろうが、それについても断定的なことは言えないであろう。

 これからの時代、人間における創造性とは何か、枠組み自体を問う力とは何かといった問題をこれまで以上に厳しく問われることになり、常に「コンピュータに代替できないなにか」を求められることになるであろう。シンギュラリティの到来によって得られる肯定的側面ももちろん様々なかたちで存在するであろうが、万人が万人、人工知能に代替されぬほどに創造的であることを求められる社会というのもそれはそれで生きにくい社会のように感じられる。

参考文献

小林雅一『AIの衝撃 人工知能は人類の敵か』講談社、2015

鈴木隆博『シンギュラリティの経済学』百年出版、2016