河合隼雄『河合隼雄著作集9 多層化するライフサイクル』

  

アヌゼルムスは、なぜこんなに不器用なのだろう。彼は無能力ではない。彼は成績は優秀だし、将来は枢密秘書官か、あるいは宮中顧問官にさえなれるのではないかと期待されているほどだ。(...)このように「夢」を実現する能力をもっていながら、それを潰してしまう不器用さがアンゼルムスを苦しめるのは、彼の知らないところで、もっと深い次元の「夢」が彼を捉えているからである。不器用さは深い夢への通路となる。

青年は夢を持つべきだ、と言ったりするがほんとうのところは、夢の方が青年を捉えているというべきだろう。(...)青年が夢破れて八方ふさがりと思ったり、己の不器用さに腹が立って仕方がないと感じたりするとき、自分が捉えようとしている「夢」は何か、と考えてみると発見をすることがあるだろう。そこからまったく新しい道が拓けてくる。と言っても、それはそれ相応の苦しみを伴うものであるが。p.71

 母性はロマン主義の敵のようである。幼い時はそれはリーゼばあやとして育ててくれるのだが、青年となって詩の世界へ飛翔しようとするときには魔女ラウエリンとなって妨害する。したがって、それは退治されなければならないのだ。このことは、ロマン主義の精神性の優位をも示している。身体性を拒否しようとする力は非常に強力である。(...)ロマン主義は、人間の理性よりも感情の世界、外的現実よりも夢などを重視する考えである。人間の存在の深みに降りてゆこうとするものが、母なるものを殺し、身体性を否定することなどできるのだろうか。ここにロマン主義のもつ悲劇性があり、ロマン派の芸術家に自殺などの悲劇的人生が多いことと無縁ではないように思われる。p.77

現実と夢とを明確に区別して考えている間は、どうしても夢の方が分が悪い。夢は現実によって無視されるか、現実の裏打ちとして奉仕させられるか。ところが、そもそも「現実」ということが、それほど明確でなく、そこにはさまざまの現実がある、と考えはじめると、夢の方もある種の「現実」として見るべきだ、ということになる。p.80

かつての青春は、現実と夢とを明確にわけ、その夢をいかに現実化してゆくか、というところに意義を見出そうとした。しかし、この方法はどうもあまりうまくゆかないことがわかってきた。現代の青春は、夢と現実の区別があいまいになる。その両方をリアリティと受け止めて、そのなかに生きることが大切となる。p.89

日本では多くの遊びが「道」という観念として高められ、宗教的な色彩をもってくる。簡単に言ってしまえば、欧米においては、スポーツにしろ芸能にしろ、そのような技術を身につけた強い自我を形成することに主眼が置かれるので、どのようにして鍛えると強い自我ができるかと、その可能性をできる限り伸ばしてゆこうとする。これに反して、日本の「道」は、むしろそのような自我を棄て、自我を離れたところで体験する意識によって把握されたものを尊ぶことになる。後者の場合は、したがって宗教的な修行に通じてゆくが、スポーツとか技術の修得として見た場合、西洋流の方が長所をもっているというべきであろう。(...)日本人の精神力は苦しみに耐えるときには効果的であるが、自分の力をのびのび発揮するときには、あまり役に立たない。p.121

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