河合俊雄『村上春樹の「物語」 夢テキストとして読み解く』

 

・はじめにー物語と心理学

村上春樹の作品を心理学的に「解釈」しようとすると多くの問題が起こってきて、それはほとんど不可能なことに思えてくる。それはまず、村上春樹の作品において、「自我」というのが重要でないからであろう。それは、登場人物が物語の流れに流されていく村上春樹の作品を読めばわかることであるし、また著者も繰り返し指摘しているところである。たとえば、前近代の日本では『雨月物語』に見られるように、現実と非現実の境界を超えることにそれほどの違和感がなかったのが、近代小説が、自然主義リアリズムということで、近代的自我の独立に向けてそのようなメンタリティーをむりやり引っぱがしたことを指摘している。p.17

前近代のあり方というのは、神話的世界や、夢の世界にわれわれが包まれていたというものである。たとえば古代ギリシャ人は、オケアノスという河に周囲を囲まれた世界に生きていた。あるいは古代ゲルマン人は、ミッドガルドの蛇に自分たちの領域が取り巻かれた世界観を持って生きていた。森に囲まれた村というのも、同じイメージであろう。それに対して、現代に生きるわれわれは、そのような世界を否定して出て行き、自我や主体を確立させている。もはやわれわれは、夢や神話的世界に包まれてはいず、世界を自我や主体から眺めている。これに対して、ゲーリッヒは公園や動物園というメタファーを用いる。つまり前近代の世界において、森や動物という自然によって人間が取り囲まれていたのが、逆に自然を人間主体が人間世界の中に取り囲んでしまって、外から見るようになったあり方が公園や動物園であるというのである。p.21

通常の心理学的な解釈は、概念や理論を対象に当てはめることになるので、その結果として外から夢をながめるだけのことになりがちである。これの問題点は、外から眺めることに終わるだけではなくて、既知の概念や理論以上のことが、夢からでてこないことである。夢見手の生活史や連想から夢を解釈するのも同じ問題があると思われる。そうすると、夢の世界が過去の生活史や夢見手の連想から説明されてしまって、何も新しいものがもたらされない。そうではなくて、心理療法において、夢を未知の世界とみなして、それをなるべく内在的に読むことによって、未知のものから全く新しいインパクトがもたらされるはずである。p.22

・自立と近代意識

自己意識というのは西洋の近代に確立されたもので、ギーゲリッヒは遠近法、デカルトのコギト(考える私)、宗教改革をそのパラダイム的な出来事として挙げる。中世の絵画のような、象徴性を重視し、遠近の区別がなかったものに対して、ルネッサンスに成立した遠近法とは、ある離れた一点から見る意識が確立されたことを示すものである。デカルトはその有名な懐疑において、全ての物の存在を疑っていく。これは物がそれ自体で存在し、いわば魂を持っていた前近代の世界の終焉と破壊とを示している。それに対して、考える私、つまり人間主体、人間の意識のみが存在することが確信される。これも意識の確立を告げるパラダイム転換である。さらに宗教改革は、これまでのように教会というものに媒介され、また教会によって包まれていたあり方から解放されて、個人が神と向き合うというあり方を提唱する。

このような近代意識は、これまでの全近代的なあり方から解放していくのを特徴にしている。自然、共同体、親などによって包まれていたあり方から、自分を解放していくことによって近代意識は確立される。そしてこれまでのしがらみから自由になったことによって、抽象的な原理や、自然科学が威力を持つのである。pp.51-52

・解離と遭遇

近代意識には、解放された自由に責任ということがつきものである。しかしそれを二人は徹底して避けている。これも青豆と天吾が体現している存在のあり方、十歳における自立によって獲得した意識が、いわゆる近代意識であるかどうかに疑問がつくわけなのである。責任というのは、自分と他者に対して持つはずである。自分に責任を持つから、自己意識が生まれる。それでは、自分や他者に責任を持っていず、従ってそれを定点にしていない意識は何を定点やリファレンスとしているのであろうか。

青豆と天吾にとっての、定点やリファレンスのポイントとして目立っているのは身体である。偶発的なつながりが暴力や性的な接触という形を取るので、身体というのは既にクローズアップされていた。この場合の身体は人と人とがつながるための接点をなしている。

ポストモダンの意識

スプートニクの恋人』と比べてみると、『三四郎』の冒頭には、まさに前近代の世界と葛藤する近代意識が認められるように思われる。東京に出てきて、近代人になろうとする三四郎にとって、故郷を思い起こさせる女とは、まさに自分に追いすがる前近代のあり方を体現している。それでは前近代のあり方とはどうであったのだろうか。三四郎の立場に当てはめてみれば、この女の誘いに迷いなく応じて性的な関係を持つことであり、それはまた故郷や共同体とつながることを意味する。夜這いやまれびとを供するという習慣があったように、性的な関係を持つことに前近代の世界ではあまり抵抗もなかったはずである。そしてまれびとという言葉が出たように、今ここの目前の相手と一緒になることは、単なる性的な関係ではなくて、神や超越性とつながることであったかもしれない。(…)

しかし近代人たろうとする三四郎に、そのような生き方を選ぶ可能性は残されていない。人格の全体性や連続性、それに自分や相手への責任という世界や観念を生きる近代人たろうとしている三四郎にとって、今ここの目前のものや人に全てを賭けることはできない。今後つきあえるはずのない相手と、今だけの関係を持つのは許されないのではないかという「禁止」が働く。(…)罪悪感、自意識、葛藤、それに不安というのは、そこに自分と自分の間の関係という自己反省的な感情や意識が働いていて、近代意識の大きな特徴であろう。pp.85-86

ところがポストモダンの意識に、自己関係というのは存在しないようなのである。これはこころのそれぞれの要素が、別々に解離的に働いていて、互いに関係をもっていないことを意味する。p.89

ポストモダンの意識にとって、物にしろ、人間主体にしろ、かけがえのなさは原理的に存在しない。だから『アフターダーク』においては、はるか上空の視点から話がはじまる。それは全く抽象的で無名な点である。(…)つまり誰の話であってもよいわけで、そこには何の必然性もないはずなのである。全てはいわば恣意的で交換可能である。(…)

しかし全てが浮遊し、入れ替わり可能なような恣意的な世界は、あまりにも耐え難いし、混乱を招く。そこでポストモダンの意識は、これまでの意識のあり方とは異なる手がかりを求める。まずその一つが部分というストラテジーである。

ロマンチックラブというのを考えてみると、それは相手の全存在に対して、自分の全人格を賭けるものである。それに対して、ポストモダンの意識ではそのような全人格性や、全体性がない。たとえば性というものは、常に部分的なものである。(…)

相手が部分であるように、自分も部分である。近代意識のような主体としての自分の全体性やかけがえのなさがないだけに、自分もある部分になる。pp.96-97

象徴性のない、恣意的な世界の中で、年月日や『アフターダーク』における時間の表示をはじめとして、非常にデジタルな数字が目立つ。(…)象徴性がない世界というのは浮遊しやすい。数字がその歯止めとなって、意味のない世界に定点を与えているのであり、それはまさに現代の世界や意識と共通しているのである。p.99

・神話的世界とその喪失

中沢新一が指摘しているように、超越性とは「経験が触れることのできない」もので、人間の心の中の、「現実の世界での五感からの影響や経験の及ぼす働きから完全に自由な領域」である。しかし近代意識からすると、向こう側の世界や超越性の世界は存在しない。それはたとえば啓蒙主義に迷信として否定されてきた。けれども、プレモダンの世界では、向こう側や超越性の世界が存在して、それは神話や宗教儀式などによって表現されてきた。折口信夫が関心を持った「まれびと」や「翁」も向こう側の世界から現れてきた存在と考えられる。pp.113-114

・超越の反転と結婚の四位一体性

愛と殺害の関係を結びつきを暗示している物語としては、ギリシャ神話におけるアルテミスとアクタイオンの話が興味深い。猟犬たちを連れて、獲物を追って森の奥に入っていった狩人のアクタイオンは、裸で水浴びをしている女神のアルテミスを見てしまう。裸の姿を見られて怒ったアルテミスはアクタイオンを鹿の姿に変え、アクタイオンは自分の猟犬たちに襲われてバラバラにされてしまう。ギーゲリッヒが解釈しているように、これは狩猟という行為の深い真実を、また愛と殺害の同一性を示していると考えられる。女神アルテミスは、熊や鹿の姿で現れることがある。狩人であるアクタイオンが、獲物の鹿を殺すというのは、それと一体になることで、ある意味で愛の行為なのである。だから獲物の鹿を殺すときに、それの真実の姿、つまり美しき女神のアルテミスを見る。しかし見ると同時に、自分も獲物の鹿、つまりアルテミスと一体になり、鹿の姿になり、獲物となって死ぬことになる。ここでは愛することと殺すこと、さらには殺されることは一つになっている。そして殺し、殺されることは、アルテミスという女神と一体になること、つまり超越性の体験なのである。pp.133-134

ロマンチックラブは、ある種の理想の愛であって、従ってその対象は結果的には実現不可能な彼岸的なものである場合が多い。夏目漱石の作品における謎めいた女性たちも、ロマンチックラブの対象の代表的なものと考えられるけれども、『三四郎』における美禰子をはじめとして、たいていそれとは結ばれずに終わる。けれども、それは希求されないと意味がない。愛の対象を恋い焦がれることなくして、ヨーロッパの宮廷愛やロマン主義文学は成立しないであろう。そもそも彼岸的なものは、結果として到達できたり、獲得できたりするかどうかではなくて、そこへのコミットによって、動きが生じてきて、また彼岸的なものとして存在するのが大切であると考えられる。(…)愛の対象が存在するかどうかとか、得られるかどうかという実体や結果が問題ではなくて、自分がコミットし、動いていくことの中に、愛は実現するのであって、そうしてはじめて真実にふれることができる。最初から愛が不可能であるとわかっているかのように思って、関わらないのは、真実を知っているようで、実は真実にふれていないことになると考えられる。p.139

・人間の愛と物語ー心理学的差異

村上春樹の小説において、人間の結合や恋愛の成就が出てくるのはまれである。それはポストモダンの意識においては、家族、共同他、自然などにもはや包まれなくなった人々はバラバラに生きていて、そこに偶然の邂逅があるだけだからであろう。(…)つまりこれは、全てのものが等価につながり、等価にバラバラになっているからである。

しかし村上春樹の作品において人とのつながりや恋愛が成就しないのは、全てが等価にバラバラになっているからだけではなくて、恋愛において向こう側や超越性との関係が相手によって担われているためであることが多いように思われる。(…)つまり恋愛が成就せず、常に別れや喪失で終わってしまうのは、あの世とのつながりがあったプレモダンの世界の喪失に関わっていると考えられるのである。そして超越性との関係に囚われていたり、超越性と人間の関係の混同があったりするからこそ、人間同士の関係は生じてこないと考えられる。つまり『1Q84』におけるような心理学的差異が成立していないのである。pp.166-167

相手が一面的に向こう側やこちら側の世界を象徴しているだけでは、恋愛は成就しないように思われる。それは天吾が述べているように、女性が象徴や喩えになっていて、現実の女性ではないからであろう。超越性とつながりつつも、現実の女性であるというのは、大きなポイントである。いずれにしろここでの恋愛は、向こうの世界から二人で現実に戻るという意味を帯びていて、その意味ではやはり『1Q84』において、青豆と天吾が恋愛を通じて超越性の世界を断ち切っていくのと似ていると言えよう。p.169

・超越性の排除となごり

フロイトのエディプス構造を参考にしつつ、そこから欲望の三角形という興味深い文学論を展開したのがルネ・ジラールである。ジラールは、『欲望の現象学』の副題にもなっている「ロマンティークの虚偽とロマネスクの真実」を対比させる。つまりロマンチックラブというのが、主体が自ら選んで対象を求めようというものであるのに対して、それは虚構であって、愛や欲望には常に媒介者という第三者が存在するのが真実だとする。p.190

青豆は自ら属していた証人会の人たちのように、いわば狂信的に神を信じているのでも、また以前の自分のようにそれを完全に否定しているのでもない。(…)その神については次のように描写されている。「姿かたちを持った上ではない。白い服も着ていないし、長い髭もはやしていない。その神は教義も持たず、経典も持たず、規範も持たない。報償もなければ処罰もない。何も与えず、何も奪わない。昇るべき天国もなければ、落ちるべき地獄もない。熱いときにも冷たいときにも、神はただそこにいる」 p.196

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