ロラン・バルト『表徴の帝国』

「つまり、あの国では、宗教は礼儀にほかならない、あるいはまた、宗教は礼儀にとってかわられているのであると。」105頁

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ロラン・バルト『表徴の帝国』再読。しみじみと面白い。

この国では、「形式」は「実質」に先立つ。それは能や茶道といった芸事から、接客や贈り物といった日常的な対人関係の諸相にいたるまで、あらゆる場面で見いだせる。

「形式」よりも「実質」を重視する文化においては、コミュニケーションにおける社会的なコードの重要性は二の次になる。偽りのない人間の内部こそ尊敬されるべきだとされるのならば、率直でぶっきら棒で飾らない間柄こそが、相手の個人的な価値をいちばんよく尊重することとなる。

親しい間柄において、深々と頭を下げてお辞儀をするような態度は、相手との関係をよそよそしいものとしてしまう。それゆえ人は挨拶を簡略化し、一切のコードとは無関係に相手との一対一の親密な関係を築こうとする。

対して「実質」よりも「形式」を重視する文化においては、礼儀や型といったコードそのものに聖性が帯びる。それは何人たりとも気軽に犯してはならない聖なる規範であって、中身そのものよりもその外的な規範を守ることこそがすべてに先行して重視される。バルトが挙げているのは、中心のない食物「すき焼き」や、中身にまして重視される包み紙、そして平身低頭といった礼儀作法である。これらはすべて、社会的な約束事や取り決めであって、実質や中身の反映として表層に現れてきているものとは必ずしもいえない。中身やコンテンツといったものは二義的なものであり、何にもまして先づ「形式」を守ることこそが神聖視されているのである。

「~道」と名付けられる伝統文化における「型」や、禅仏教における姿勢や呼吸法の重視もその代表的例であろうし、現代社会においてもその思想の基本的な構造は変わらない。サービス業における接客のあり方、肩書きや出身校への拘り、結婚式でのスピーチ等々、形式を重視する卑近な例はいくらでも見つけられるだろうが、難しいのはそれがただの世俗主義ニヒリズム、無内容なスノッブさやエリーティズムと紙一重なところである。

アイデンティティに相当するような日本語が以前は存在しておらず、一人称のあり方もコミュニケーションする相手によって変化することからもわかるように、他者から切り離されたかたちで一義的に決定できる「私」というような自己認識のありかたをこれまで日本人はあまりもとうとはしなかった。(少なくとも日本語のボキャブラリとして頻繁に用いようとはしてこなかった。) 自分の立場というものは常に相手との関係性のなかにおいて措定され、その場その場のコミュニケーションの約束事に基づいて行動せんとする。

そのような態度はおそらく両価的で、皆がある役割を演じることによってその場その場での秩序が維持されたり、役割と実質の狭間で葛藤するなかで成長する契機となったりもするのであろうが、ともするとただの無意味・無内容な形式主義ニヒリズム、空気や権威にただただ符合するだけの態度へとつながりやすい。形式だけを重視する態度、実質だけを重視する態度、おそらくそのどちらにも問題があって、実際には「実質」と「形式」はもっと相補的な関係にあり、洋の東西で前者を優先するか、後者を優先するかの違いがあるにすぎないように思われる。

日本における「形式」を考えていて面白いのは、対人関係における社会的コードはいまだかなり厳密で保守的であるのに、都市や建築を考えるうえでの約束事や規範といったものは、法的な規制以外ほとんど無効化しつつあるという事実である。かつては住宅はその住まい手の社会的階級と深く結びついており、武家は屋敷型の住まいに、商人は町屋型の住まいにといった具合に住宅の表層はその住まい手の社会階層を示すコードでもあった。しかし現代の都市では、個人が住宅を建てる際にどのようなものを建てるべきかに関する社会的な約束事がなくなってきており、法的・経済的に可能であればいかなる建物が建てられたとしてもそれを非難することは難しくなっている。現代日本社会において社会階層は現に存在するし、対人関係における階層間のコミュニケーションのコードはまだ残っているにも関わらず、建築における社会階層間のコミュニケーションのコードはほとんど崩壊しつつあるという点が非常に不思議であり、面白くもある。日本では、なぜか建築に限っては礼儀も形式も何もあったものではないのであり、むき出しの個人の欲望がグロテスクに表現され、階層間の約束事や町並みの調和といったかつての「形式」は二の次とされる。(最近の新国立競技場の一件はそのような欲望の発露を許容し続けてきた東京においてもはや守るべき対象がなんなのか分からなくなってきているにも関わらず、景観を守ろうという動きが生じてきた点で二重に不思議でもある。)

このことは何を意味するのであろうか。もしかするとそれは戦後の日本人の生ぬるい階層意識のなせる技かもしれないし、もしくは新自由主義的な風潮を反映した個人の欲望の発露かもしれない。

いずれにせよ、形式や約束事を重んじてきたはずの日本人が、その形式を取っ払って「ありのまま」の欲望 (≒実質) を表現することが許されるといかなる混乱が生じるのか、現代都市は非常に先駆的なかたちで表現してくれているように思われる。