鷲田清一『「待つ」ということ』

  「窯変」という言葉がある。陶工はこねた土の上に釉薬を塗るが、窯にそれを入れたあとは、焼き上がるまで待つ。どんな色が滲みでてくるか、ときにどんな歪みがその形に現れるか、それは作家の意図の外にある。気に入った形が現れるまで、陶工は土をこね、焼くということをひたすらくりかえす。割るもの、棄てるもののほうが多いかもしれない。ここで、何かを創るという意思はかえって邪魔である。作為に囚われているあいだは、器はいつまでも形を現さない。そのため陶工は、作為を消すために土をこねるかのように、土をこねる。何度も何度も飽くことなく土をこね、そして焼く。「一人の作者に期待し得ぬような屈折」(和辻哲郎)が現れるまで、偶然に身をゆだね、待つ。まるでおのれの作為を壊すために同じ単純な動作を反復しているかのようである。pp.119-120 だれから呼びかけられているのか見えないまま、それでも霧のなかで「おまえがそこにいることには意味がある」と呼びかけられているという思いに賭けようとするとき、<待つ>ひとは「信仰」と壁一枚隔てたところまで運ばれている。「きっと神さんが見たはる……」。わたしを揺らめかせるもの、たとえばメロディを奏でそうな装置をしまうこと、物語にふれないこと、香りを遠ざけること。そしてたとえば写経のように、書くというただそのことにだけじぶんの存在を約めること。これは、アランが書いていた「礼拝の原則」のすぐ傍らにある、肉体が、ひいては心が「散る」のを封じ込める仕方である。pp.126-127 ***