ディートリヒ・ボーンヘッファー『共に生きる生活』(森野善右衞門訳)

 

Ⅴ章「罪の告白と主の晩餐」

・背景

罪の告白は、ローマカトリックでは七つのサクラメント(洗礼、堅信、聖餐、告解、終油、叙階、結婚)の一つとされていたが、プロテスタント教会ではルター以降、洗礼と聖餐以外の5つのサクラメントを否定した。ボーンヘッファーの理解によれば、ルターは罪の告白を強制的に義務づけること、すべての罪を列挙することの必要性は否定したが、そうすることによって罪の告白の押し付けがましい性格を取り除いて、神の招きとキリスト者の自由の事柄とした。p.167

1. 罪の告白の必要性

・「互いにその罪を告白し合いなさい」(ヤコブ五・一六)

キリスト者たちが、礼拝を共にし、祈りを共にし、また奉仕におけるあらゆる交わりを持っているにもかかわらず、交わりへの最後の通路が開かれないということがありうる(p.138)

<あなたは罪人、救いなき大きな罪人である。そしてあなたを愛して下さる神の許へ、ありのままの罪人として来れ>と招くこと、これが福音の恵みなのである。神は、ありのままのあなたをお望みになる。p.138

全世界において、ただ主にあるその兄弟の前においてのみ、わたしたちはありのままの罪人であることが許される。(...)兄弟は、キリストに代わって、わたしたちの罪の告白を聞き、そしてキリストに代って、わたしたちの罪をゆるす。p.140

・交わりへの道

罪の告白において、交わりへの道が開かれる。(...)罪は人を交わりから遠ざける。(...)罪は知られないままであろうとする。罪は光を恐れ避ける。(...)罪は明るみに出されねばならない。言い表し難いことは、公然と語られ、告白される。p.141

ここで言われているのは、ただふたりのキリスト者の間の罪の告白についてだけである。全教会との交わりをふたたび見出すためには、すべての教会員の間での罪の告白が必要とされているわけではない。わたしがその人の前でわたしの罪を告白し、そしてわたしに対してその罪をゆるすひとりの兄弟において、すでに全教会がわたしに出会っているのである。p.142

2、十字架への解放

すべての罪の根は、高慢である。(...)人間は、まさに彼の悪において、神のようになろうとするからである。兄弟の前での罪の告白は、最も深い屈辱である。それは苦痛を与え、へりくだらせ、高慢を徹底的に打ち砕く。pp.142-143

この屈辱は大へんつらいことなので、わたしたちはいつもいつも、この兄弟の前での罪の告白を避けることができればよいと考えている。p.143

万人の目に明らかな中で、わたしたちに代って、罪人の恥辱の死を身に受けたのは、実に他ならぬ、イエス・キリスト自身であった。(...)イエス・キリストの十字架は、すべての高慢を打ち滅ぼす。(...)もしわたしたちが、罪の告白における罪人の恥辱の死を身に受けることを恥じるなら、わたしたちは十字架を負うことを拒むのである。p.143

3、確かさへの解放

・神の前での告白 兄弟の前での告白

わたしたちにとってしばしば、神の前での罪の告白の方が、兄弟の前でのそれに比べてよりやさしいのは、どこにその理由があるのだろうか。神は聖であって、罪なき方である。(...)しかし兄弟は、わたしたちと同じ罪ある人間である。(...)[だから]わたしたちは、兄弟への道を、聖なる神に至る道よりももっとやさしいと考えるのが当然ではないのだろうか。p.145

そうなってはいないとすると、(...)わたしたちは、むしろ自分自身に対して罪を告白し、そして自分で自分の罪をゆるしていたのではなかっただろうかと。(...)自分で自分をゆるすことによっては、わたしたちは決して罪から解放されることはない。それができるのは、裁き、そして恵みを与える神のみ言葉自身だけである。pp.145-146

わたしたちが、兄弟に対して、わたしたちの罪を告白することが許されているということは、恵みである。それは、最後の審判の恐怖が免除されることである。p.146

・一般的な罪の告白 具体的な罪の告白

告解においては、具体的な罪の告白が問題となるのである。人びとは、一般的な罪の告白ですませることによって、自分自身を義とするのが常である。わたしは、わたしの特定の罪において、それがそもそもわたしの経験の中に入って来る限りにおいて、人間性の完全な喪失と腐敗とを経験する。(...)もしそうでなければ、わたしは、兄弟の前での罪の告白においても、なお偽善者となり、慰めからははるかに遠い存在であり続ける、ということにもなりかねない。p.147

罪の告白は律法ではない。それは罪人のための神の助けの提供である。(...)ルター自身は、兄弟の前での罪の告白を抜きにしては、キリスト者の生活をもはや考えることのできない人の部類に入っていた。「大教理問答」の中で、ルターは次のように言っている。ー「だから、もしわたしが罪の告白(告解)を勧めるなら、わたしは、キリスト者であることを勧めているのである」。p.148

4、だれに告白するのか

・人生経験よりも十字架経験が必要

すべてのキリスト者の兄弟が、イエスの約束によれば、他に対する罪の告白の聞き手となることを許されている。しかし(...)彼はおそらく、そのキリスト者との生活において、わたしたちとそんなに離れて高くにいるわけではないので、わたしたちの個人的な罪に対して無理解なままに、ただ問題を他にそらしてしまうことがありうるのではなかろうか。(...)

エスを十字架にかけた自分の罪の恐ろしさに一たび驚愕した者は、もはや兄弟のどんな重大な罪にも驚くことはない。彼は、イエスの十字架から、人間の心を知る。人間は、罪と弱さの中で、どれほど完全に失われているか、罪の道にどれほど迷い込んでいるかを知り、またそれが恵みと憐れみの中でどのように受け入れられているかを知る。ただ十字架の下にいる兄弟だけが、わたしの罪の告白を聞くことができる。

人生経験ではなくて十字架経験が、罪の告白の聞き手を造るのである。p.149

キリストの十字架と日ごとに真剣に接することにおいて、一面では人間的な裁きの霊、また多面では柔軟な大目に見る霊は、キリスト者から消えてなくなり、キリスト者は神の峻厳と神の慈愛の霊を受ける[ローマ一一・二二] p.150

5、二つの危険

(1) 聞き手側

ひとりの人が、ほかのすべての人の聞き手にならないように。p.151

→容易に過重負担となり、人間の魂の上に精神的な暴力支配を行う

→自分でも罪の告白することなしに他人の告白を聞くことのないように

話し手側

その罪の告白が、一つの敬虔な業となることのないように。p.151

→敬虔な業としての罪の告白は、もっとも忌むべき、最も救い難い、最も不潔な心の売り渡し行為となり、快楽的なおしゃべりとなる。

→免罪の約束のゆえにのみ、わたしたちは罪の告白をすることが許される

6、喜びの食卓

罪の告白は特に、聖晩餐に共にあずかるための準備として、キリスト者の交わりに仕えるのである。p.152

共にあずかる主の晩餐の前の日に、一つのキリスト者の交わりの兄弟たちは、会い集って、互いにひとりが他者に対して、犯された不正のゆるしを求めるのである。(...)しかし、兄弟への謝罪は、まだ罪の告白ではない。そしてただ前者(兄弟への謝罪)だけが、イエスのはっきりした戒めの事柄である。p.153 ←どういう意味か??

主の晩餐の[にあずかる]日は、キリスト者の交わりにとっては、喜びの日である。神の兄弟とに対する和解を受けた心をもって、教会は、イエス・キリストのからだと血との賜物を受け、その賜物において、ゆるしと新しい生命と祝福とを受ける。(...)聖晩餐の交わりは、キリスト者の交わり全般の完成である。p.154

(解説によるとフィンケンヴァルデ牧師研修所において、兄弟相互の個人的な罪の告白として、毎月1回の「主の晩餐」の前日の土曜日に、罪の告解をすることが勧められた。そしてそこでの告白の秘密を守ることがルールとされた。しかしこのことは、研修生たちを戸惑わせ、カトリックへの逆戻り、異端、律法主義などの批判を受けることになった。しかしボーンヘッファーは、ルターにおける罪の告白への招きは義務や律法を課すことではなく、自由への招きであり、悔い改めとキリストへの服従への招きである、という。p.175)

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