斎藤環『生き延びるためのラカン』

 

・なぜ「ラカン」なのか?

僕たちはふだん、意味とイメージの世界を生きている。これをラカンは「想像界」と呼ぶ。ところが、意味を生み出すはずの「言葉」は、じつは言葉だけで独自の世界を作っている。こちらは「象徴界」と呼ばれる。p.9

・「こころ」はどれほど自由か?

言葉には二つの側面があると考えてほしい。ひとつはシニフィアン、つまり音で、もうひとつはシニフィエ、つまりイメージ(=意味)だ。言葉とその対象物、というふうに考えてはいけない。それだと、言葉はたんなる「記号」になってしまう。ここで大事なことは、シニフィアン(音)とシニフィエ(イメージ)の結びつきには、なんの必然性もないということ。それから、シニフィアンが喚起するイメージには、かなり幅があるということだ。p.39

僕は真面目に言うのだが、ボケとツッコミの関係って、すごく精神分析的なものだ。まず曖昧な言葉があり、その文節と解釈があり、あらたな文脈の創造がある。これ、構造的には精神分析そのものじゃないか?笑いの機能として、「文脈の衝突、ないし転換」を重視する僕としては、すぐれたボケーツッコミ関係のエッセンスを治療に応用できないものか、という期待すらしているほどだ。p.44

・「シニフィアン」になじもう

記号にはすべて意味がある。意味がないものは記号ではない。(…)そして、この場合、記号に意味を与えているのが言葉なんだ。記号は、言葉によって保証されなければ、意味を持つことができない。「バツ」が否定を意味しているのは、その意味を言葉をつうじて教わったことがあるからだ。p.46

象徴界」っていうのは、こういうシニフィアンが織りなす複雑なシステムのことだ。ラカンによれば、この象徴界の作用は、人間生活の全般に及んでいる。その作用は意識されることもあるけど、無意識の部分がずっと多い。ラカンの有名な言葉に「無意識は言語として(のように)構造化されている」とか「無意識はシニフィアンの宝庫である」っていうものがあるけれど、それはだいたい、このへんのことを意味していると考えてくれていい。え?納得いかないって?なるほど、無意識には「イメージ」もあるじゃないか、というわけか。そうだよね、もしたとえば夢が無意識の表現であるのなら、夢の豊かなイメージはどこから来るのか?っていう話になってしまう。そう言いたくなるのも、もっともだ。

でもね、フロイトラカンの素晴らしさは、まさにこの点にあるんだなあ。彼らは純粋なイメージなんてものは存在しなくって、イメージは常にシニフィアンから二次的に作り上げられるものだと考えている。これは、かなり、画期的な発想なんだ。それというのも、誰だってイメージのほうが言葉よりもずっと豊かだ、と考えがちなんだから。pp.47-48

・去勢とコンプレックス

マトリックスが偽物だと知らされたネオに、反乱グループのボスであるモーフィアスが言う。「ようこそ、現実の砂漠へ」とね。そう、仮想世界の豊かさに比べて、現実の世界はそれこそ砂漠なみに味気なく、殺伐としている。でも、マトリックスが偽物であることに気づくことは、ネオに新たな力を持してくれる。つまり、マトリックス内部では、カンフーの達人だったり、飛んでくる銃弾を体を反らしてよけたりできるようになる。マトリックスを「現実」と思い込んでいたら、こうはいかない。そして、ネオがさらなる覚醒に至るために、一度死ななければならなかったこと。この点も大切だ。大きな「自由」を獲得するには、大きな「犠牲」を払わなくてはならない。そして、これこそが「去勢」の本質なんだ。p.69

・愛と憎しみの想像界

ナスキッソスは水を飲もうとして、水面に映った美少年、つまり自分の姿に恋をしてしまったものの、時すでに遅し。ナルキッソスは、自分の似姿に魅了されたまま、その場から離れることもかなわず、だんだんと衰弱して死んでしまう。彼の死体があった場所に咲いていた黄色い花は、のちに水仙(ナルキッソス)と呼ばれることになる。

エコー、つまり「声」と「言葉」をないがしろにしたナルキッソスが、「イメージ」に殺される、ということも含めて、なかなか含蓄のある話だね。(…)極論すれば、視覚イメージに魅了されるということは、多かれ少なかれナルシシズムの作用ということになる。

そもそも想像界は、そのはじまりから深く自己愛と結びついている。自分だけの想像や空想だけにひたっているファンタジーな人が嫌がられるのは、そのたたずまいが、すごく閉じていて自己愛的にみえるからだ。pp.89-90

対象aをつかまえろ

「よろしい。しずかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」(『どんぐりと山猫』)p.114

・欲望はヴェールの彼方に

いわゆる「抑制の美学」ってのは、だいたいにおいて「覆いの美学」だ。こういう美学については、僕たち日本人の独擅場だったわけだ。控えめであるほどリアルであるということ。これは、とても重要なことなんだ。p.130

・女性は存在しない?

男とはファルス、つまり象徴的なペニスを持つ存在のことだとね。性というのは、ラカンによれば、象徴的にしか決定されない。そして、そもそも言葉の世界である象徴界は、ファルス優位のシステムになっている。人間は、去勢されることで、つまりペニスの代わりにファルスを獲得することによって、この象徴界に参入するんだって話は前にしたよね。だから極論するなら、なにかを語ることを含めて、言葉による活動は、どうしても男性原理的なものが優位になりがちだ。pp.152-153

象徴界において男性は、ファルスを中心として「男はこれで全部」というような、閉じた集合をつくっている。ところが女性の集合は「これで全部」という具合には閉じていない。したがって「女性一般」なるものは存在しないということになる。これをラカンは「女は存在しない」と表現するわけだ。p.154

ひとたび精神分析を受け入れるなら、そもそも生殖や繁殖は、性とは何の関係もないことになる。妊娠や出産は、実は象徴界の外で起こる、いわば「現実的な出来事」なんだ。p.158

そういう発想からすれば、「愛」だって、完全に調和的な男女関係が存在しないことを埋め合わせるための幻想に過ぎないことになる。男性にとっての女性は、実はひとりの主体的な人間ではない。男性は女性の一部しか愛することができない。それは「からだ」だったり「こころ」だったりするけれども、要するに、生きた女性の全体ではなくて、その一部を、幻想的なものとして愛するのだ。このとき女性は「対象a」として、男性の欲望の原因となっている。このあたりのことを、ラカンは「女性は男性の『症状』である」なんて言いかたをしているけれど、ここまでつきあってくれたひとなら、もう怒りませんね?p.159

・「現実界」はどこにある?

認識したりコントロールしたりできる領域が想像界精神分析の力を借りるなど、限られた状況下でなら認識・コントロールもある程度可能なのが象徴界、いかなる方法論をもってしても、認識もコントロールも不可能な領域が現実界ということになる。pp.175-176

象徴界は「在ー不在」の間から生じてきたという性質を持っている。つまり言葉(シニフィアン)は、存在の代理物なのだ。そうである以上、象徴界には根本的な欠如が刻まれている。つまり言葉(シニフィアン)は、存在の代理物なのだ。そうである以上、象徴界には根本的な欠如が刻まれている。つまり「あな」が空いているんだね。言葉に取り組むことができない領域、つまり現実界がそこからのぞいているような「あな」が。

でも、現実界はちがう。そこには欠損や欠如はない。「現実界には亀裂はない」とラカンは言うけど、これは要するに、現実界っていうのは構造をもたない、一種の混沌というふうにもとれるね。p.181

象徴界が機能しないということは、去勢がうまくいかなかったということでもある。難しく言うと、象徴的なものが「排除」されてしまっている、ということだ。(…)

問題は、精神病者にとっての言葉の価値が、僕らとはかなりずれてしまいがちなことにある。たとえば僕たちにとって、言葉は象徴に過ぎないけど、彼らにとっては言葉は、かなり現実的なものになるんだね(…)。彼らにとって「言葉」とそれが「意味するもの」とが同じ価値をもつことはしばしばある。だから彼らは、言葉を額面通りに受け止めがちだ。(…)同時に、いろんな場面で「文脈」を理解することが苦手になってくる。彼らがときどきとんちんかんなことを言ったりしたりするのは、そうしたことの理解の低下が原因であることも多い。pp.189-190

・転移の問題

さて、同じくエロスに関係がある愛のもうひとつの形式として、「転移」というものがある。「転移」のことは、きっと知っている人もたくさんいるだろう。カウンセリングを受けていて、患者が治療者に好感を抱いたり、恋愛感情を持ったりした場合、その感情を「転移」、より正確には「陽性転移」と呼ぶ。(…)

転移というのは、ある種の人間関係の中で、相手に無意識の欲望が向けられ、現実化させられる現象を指している。それはしばしば、幼い頃の人間関係(親やきょうだいとの関係など)を、相手を替えて繰り返しているようにみえる。(…)

一般に、転移が起こってくると、病気の症状は改善する。まあ、これはわかりやすいよね。自分の恋愛感情が肯定されているときって、かなり強烈な安堵感が生まれやすい。そういう状況下で、問題がすべて解決したと思いこむことも可能になる。(…)こういう感情はニセモノとまでは言わないまでも、さっきも少し触れたように、昔の感情を反復しているだけ、ということになる。だから賞味期限も短くて、すぐにしぼんでしまったり、愛情が突如憎しみに変わってしまったりと、実にうつろいやすいんだね。pp.215-217

人の心を扱う職業は、わりと簡単に万能感を調達できるところがあって、こういう事態は決して過去のものじゃない。精神分析はそこに「転移」という限界設定をクサビのように打ち込んだ。p.223

・転移・投影・同一化

ポイントはふたつ。複数に人が関係を持つこと。そして、その関係性の中で、能動的と思われていた行為が、ほんとうは受動的なものだったことに気づかされること。(…)

前の章でも話した通り、精神分析っていうのは、この「転移」抜きには成り立たない。(…)ラカンの言葉をいくつか引いてみよう。

精神分析の始めにあるのは、転移である。

・転移はつねに、分析家のさまよいと導きの機会を示す。

・転移を支持するのは、知っていると想定される主体である。p.230

***