河合隼雄『イメージの心理学』

 

・イメージと深層心理学

ユングフロイトによる精神分析よりも、もっとイメージのもつ生命力の方に注目し、その心理学において、イメージのもつ特性をできるかぎり残そうとした、と言うことができる。彼はイメージは生命力をもつが明確さに欠け、概念の方は明確ではあるが生命力に欠ける、という意味のことを述べている。このことは極めて重要なことである。p.20

・イメージとはなにか

啓蒙主義が威力をふるうまでは、夢の送り手として「神」を想定することは、多くの文化に共通のことであった。夢は神からのメッセージなのである。現代においては「神」を持ち出す人はまず居ないが、ユング派の分析家ジェームス・ヒルマンが、このようなイメージを算出してくる母胎として、たましい(soul)ということを考えてみるのを提唱しているのは、注目に値することと思われる。p.28

集約性(多義性)

イメージは実に多くのことを集約している。(…)モーツアルトは、彼自身は彼の交響曲を一瞬のうちに聴くことができたと語っている。彼の一瞬のイメージ体験を、一般の人々に伝えようとして楽譜に記すと、演奏時間が二十分間にわたるような交響曲になるというわけである。このことは、イメージの集約性ということを如実に示している。

象徴性

「言葉やイメージはそれが明白で直接的な意味以上の何ものかを包含しているときに、象徴的なのである。それはよりひろい”無意識”の側面を有しており、その側面はけっして正確に定義づけたり完全に説明したりされないものである。誰もそれを定義したり説明し切ろうと望むことはできない。人間の心が象徴の探求を始めると、それは理性の把握を超えた観念に導かれる」。

退行→新しいイメージ(シンボル)の発見→進行、という図式は、創造活動を説明するものとしてよく用いられ、そこでは、心的エネルギーのキャリアーとしてのイメージ(シンボル)の役割が、明らかに認められるのである。この際、新しいイメージが、それまで使用されていなかった新しい心的エネルギーの発掘に通じるという事実も大切なことである。人間は多くの未開発、未使用のエネルギーを潜在させており、それの開発には、シンボルが大きい役割を荷うのである。p.36

しかし、そのときの意識の状態は、一生懸命に何かを書いているときの状態とは異なっている。(…)どこかで自我の努力を放棄するようなところがある。自我の力のみに頼っているのでは駄目で、自我の抑制力を弱めつつ、なおかつ一種の集中力を保つような意識の状態が必要なのである。これは従って、全面的な退行状態とも異なっているはずである。pp.36-37

イメージについて外界とか内界とかの区別は不必要であり、ある特定のイメージ群(つまり、近代自我によって見た)に対する特定の接近法から、いわゆる自然科学が生まれてきたが、イメージの「私」性に注目しつつ、ある種の意識変容を行いつつ見たイメージ群について、「私」を通じて普遍に至る接近法を用いて語るのが、宗教である、と言うことになる。p.41

・イメージと原型

ところで、「経験主義者」のユングが、どうして不可知な「元型」の存在を仮定することになったのか。(…)つまり、それは何と言っても、私が私を探索するための心理学である。それを行なう前に、私はまったく不可解なイメージと出会う。それは私個人の歴史からは了解できない。しかし、神話や昔話などの助けを借りて、それが人類の歴史とつながり、相当な普遍性をもつこともわかってくる。つまり、それが「元型的」性格をもつことが了解される。そのときに、そのような元型的存在の背後に「元型そのもの」を仮定することは、「私」の心理学にとって、次のような利点をもたらすであろう。まず、第一に、この危険に満ち、できれば避けたいほどの苦しい探索に、全力をあげてコミットしてゆくための目標をそれは与えてくれる。元型の存在を仮定するなどという生やさしいものではなく、それはあるのだと思ってみるほどの姿勢がなかったら、このような「私」の探索はできるものではない。

第二に、元型的イメージとの同一化による自我肥大(ego inflation)を、それは避ける役割をもっている。元型的イメージは強力な力をもつ。たとえば、私がひとつのマンダラを描き、それによって精神の安定を得たとき、それによって癒されるのみならず、そこに自我肥大が生じると、そのマンダラを「売物」にしたくなったり、他人に押しつけたりしはじめる。あるいは、自分が「究極の真理」を手に入れたなどと思いはじめる。ところが、元型そのものという存在を仮定すると、いかに素晴らしい元型的イメージを把握しようとも、われわれはひとつの「過程」の上にいるのであって、どこかに到達してしまったのではないということになる。p.70

箱庭療法

ゲニウス・ロキというのは、ある場所や土地がその精霊をもつという考えである。現代人はどうしても人間の個人を主体として考えるが、このことは既に述べたような、宙に浮いた自我の存在ということになり勝ちである。近代自我は、時間と空間とを分けて考え、ある特定の空間の時間、空間に自分が存在し、また次の時間には、自分はどこかに移動している、つまり、自我を主体として考えている。しかし、ゲニウス・ロキの考えでは、空間が均質に存在しているのではなく、ある特定の場所において時間・空間が一体化して、そこにおいては、その精霊が主体性をもち、そこにおいて生じる現象のなかに、人の方が参加させられることになる。pp.135-136

宗教について、岩田慶治は次のように述べている。「宗教というのは、人間のつくりあげた文化としう衣装はそれとしてみとめながら、そのなかにつつみこまれている事物のほんとうのすがたをたしかめようとするこころみである。ものを見る。もののすがたをみとめる、そん本質を見きわめる。あるがままの、ほんとうの自然に対面する。」pp.142-144

境界例とイメージ

子どもと大人との間に中間地帯があるのとか、心と体の間に「心身」と呼ぶ中間地帯があるとか言う捉え方は単純すぎる。前節に示した「境界」は、子ども・大人という日常世界とは異次元のものであった。子どもが中間地帯を経て直線的に大人になってゆくのではなく、ある異次元の世界において実存的な変容体験をして大人になるのである。p.170

イメージはそれが真のイメージであればあるほど「生きている」。つまり、変化の過程にあり、そのなかにダイナミズムをもっている。下手な解釈はそれを殺してしまうのである。この点を大いに強調するならば、下手な解釈をするよりは、黙っていた方がいいということになる。イメージに対して、離れた距離からものを言うよりは、イメージの生きてゆく方向に向かって共に歩んで行こうとする態度の方が、はるかに治療的と考える。pp.183-184

言語の特性

池上嘉彦は『ことばの詩学』(岩波書店)のなかで、「言語は人間の表現、伝達の手段どころか、むしろ知らないうちに人間を支配している君主であるかもしれないのです。この認識は深層心理学における『無意識』の発見にも比することができるでしょう。」と述べている。pp.185-186

大江の説明によると、「日常・実用の言葉は、われわれの現実生活のなかで自動化・反射化している」。(…)大江はシンクロフスキーの次のような言葉を引用する。このような自動化作用は、ものをのみ込んでしまう。「そこで生活の感覚を取り戻もどし、ものを感じるために、石を石らしくするために、芸術と呼ばれるものが存在しているのである。芸術の目的は認知すなわち、それと認め知ることとしてではなく、明視することとしてものを感じさせることである。また芸術の手法は、ものを自動化の状態から引き出す異化の手法であり、知覚をむずかしくし、長びかせる難渋な形式の手法である」。pp.186-187

・イメージと創造性

レンベルガー『無意識の発見』

彼によると、創造の病いは、「ある観念に激しく没頭し、ある真理を求める時期に続いておこるもので」「抑うつ状態、神経症心身症、果てはまた精神病という形をとりうる一種の多形的な病である」。それは軽快、悪化を繰り返すが、その期間中、「当人は自分の頭を占めている関心の導きの糸を失うことは決してない」。この間に病いと共に正常な社会的活動が両立されているときもあるが、「その人は完全な孤立感に悩む」。「病気の終結は急速で爽快な一時期が目印となることが少なくない、当人は、人格的に永久的な変化をおこし、そして自分は偉大な真理、あるいは新しい一個の精神世界を発見したという確信を携えて、この試練のるつぼの中から浮かび上がってくる」。p.205

「創造」をしたいと思う者は、それがいかにエネルギーを必要とするかを知っていなくてはならない。先にあげた教師の例で、「面倒なことは避ける」態度をあげたが、そこからは創造は出て来ない。葛藤を抱きかかえていることは、実に大量のエネルギー消費に耐える人である。一般的な意味における「努力」の跡の見えない天才も、消費しているエネルギーは莫大なものであるに違いない。p.213

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