内田樹 もういちど村上春樹にご用心

「高く堅牢な壁とそれにぶつかってくだける卵の間で、私はどんな場合でも卵の側につきます。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても、私は卵の見方です。(…)私たちはみな「システム」と呼ばれる堅牢な壁の前に立っている脆い卵です。どう見ても、勝ち目はありません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい。もし、私たちにわずかなりとも勝利の希望があるとしたら、それは自分自身と他者達の命の完全な代替不能性を信じること、命と命を繋げるときに感じる暖かさを信じることのうちにしか見出せないでしょう。」 エルサレムスピーチより (…)こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」に依拠する人の口からは決して出て来ない。彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。それが「本能的に弱い」ということである。 pp.47-48 「言葉にできる」というのは他者たちによって理解され、共有されるということである。それは「かけがえのなさ」「代替不可能性」という村上自身による「命」の定義に悖る。私たちひとりひとりの「命」soulをかたちづくっているのは「言葉にすることができないもの」だからだ。少なくとも「言葉にすることがきわめて困難なもの」だからだ。 p.52 レヴィナスが書いているように、正義を一気に全社会的に実現しようとする運動は必ず粛清か強制収容所かその両方を採用するようになる。歴史はこの教訓に今のところ一つも例外がないことを教えている。私たちは「父」を要請してはならない。たとえ世界のかなり広い地域において、現に正義がなされておらず、合理的思考が許されず、慈愛の行動が見られないとしても、私たちはそれでも「父」」の出動を要請してはならない。「ローカルな秩序」を拡大しようとするときに、私たちはひとりひとりの「手の触れる範囲」を算術的に加算する以上のことをしてはならない。村上春樹エルサレム・スピーチでの言葉を使えば、「命と命を繋ぐ」以上のことをしてはならない。私は「父権制イデオロギー」に対する対抗軸として、「ローカルな共生組織」以上のものを望むべきではないと考えている。思弁的にそう思うのではなく、経験がそう教えているのである。 pp.64-65 相対的な勝ち負けに拘泥する人間がかならず絶対的な価値を持ち出してくるっていう構造は、それに嫌悪感を抱くのもやっぱり同じ。(…)負けているほうの人が「そういうのは好きじゃない」っていくら言っても、勝てないんですよね。この仕組みはよくできているんです。神学だってマルクス主義だってしっかりできてるし、そのあとの脱構築であろうとフェミニズムであろうと、みんなしっかりできていて、なかなか簡単には攻略できない。 p.142 ***