「キリシタン神話の変容過程について」(早天祈祷会原稿)

 今日は河合隼雄の「キリシタン神話の変容過程」というエッセイについて。キリスト教は16世紀に日本に渡ってきて、日本人はそれを取り入れて、日本人也に受け止めていくのですが、すごい弾圧にあったために250年間のあいだ西洋人の宣教師なしでそれを持ち続ける人たちが出て来ることになる。それが隠れキリシタンの人の神話として残っているのであるが、なにせ弾圧にあっていたので宣教師が残り続けることはなく、キリシタンたちが口伝で伝えていくことになる。その口伝の過程で『天地始之事』、つまり創世記のかたちが変化していっているのであるが、オーソドックスなクリスチャンからしたらけしからんということになってしまいそうであるが、その『天地始之事』では日本人の身体感覚にあうようなかたちで聖書の教えが徐々に変化していっている。そして250年間の禁制がとれたあと、日本人がキリスト教を信じてもよろしいとなったあと、半分はカトリックになるが、半分は自分たちの信じていた隠れキリシタンの信仰を守ったというところが非常に面白い。

 遠藤周作もこの『天地始之事』に大きな関心を寄せていて、エッセーのなかで「キリシタン時代とは日本と西洋の正面衝突である」なんてことを書いており、日本人がキリスト教を内面化してうえでの屈折や問題点が良くあらわれていると指摘している。明治以降、日本は「和魂洋才」などといって西洋の文明や科学技術を取り入れようとして、うわべの模倣だけは非常に成功したといえるのだろうけれど、その底にあるはずのキリスト教の宗教性というものは、きれいに、上手に無視してしまっている。たしかに日本は科学が発達し、物質的に反映し、経済成長というものは遂げたのだけれど、そのキレイに無視され続けてきた宗教性というものが今となって大きなひずみとなり、人々の心を蝕んでいるように見える。村上春樹の小説などを読んでも日本人の内面、精神世界のある種の空虚感や「根無し草」感がよく現れていると思うが、いかに経済成長をとげ、物質的に豊かになってもほとんどの人々のなかにどうしても満たし切れないものが残り続ける。ある人はさらなる経済的成長や消費で解消しようとするし、ある人はそれをテクノロジーや科学技術の発展で解消しようとする。つまりは、その人にとっての世界のリアリティーというものが、経済や科学技術にしか見出せず、宗教というものが世界のリアリティーというものからは遠く離れたものとなっているため、そのようなある種の科学技術や経済原理主義へ陥るのではないかと思わされる。 

 隠れキリシタンの話に戻ると、河合隼雄がエラノス会議でこの隠れキリシタンにおける聖書の変容過程について発表したところ、二時間ある質疑応答のトップに、ある人が「おまえはどうして神話というのか。われわれはバイブルに書いてあることをリアリティーだと思っている。おまえはそのリアリティーをどうして神話というのか」と質問したという。それに対して河合隼雄は「それは確かに面白い質問ですが、あなたはリアリティーということを言われましたが、あなたはそれをどういう意味で使っているのか、こっちが聞きたい。あなたはまさか私が話しているまわりの壁をリアリティーと思っておられるのではないでしょうね。われわれはこれを幻想だと思っているんですが」といったという。つまり、河合隼雄にいわせれば、リアリティーとか神話についてはいろいろな考え方ができるわけで、「神話も現実だ」という言い方もできるし、「われわれが現実と思っていることも神話なんだ」という言い方もできる、といったというわけである。その人は河合隼雄のその応えに対して、「わかった。おまえが使っている神話というのは、ディメンションの異なるリアリティーをそう呼んでいるんだと了解すれば非常によくわかる」と納得したというが、この「ディメンションの異なるリアリティー」という言葉はとても説得力がある。つまり、この世の現実をどう見るか、どう把握するかということであり、河合隼雄にいわせれば、「自然科学というのも、広い意味での神話のひとつなので、われわれが外的現実といっているものをコントロールするのに非常に便利な神話である」ということであり、「天地始之事」も隠れキリシタンが世界を把握するうえで役立った神話であったということなのである。

 「ディメンションの異なるリアリティー」という意味でいえば、自然科学も、経済も、宗教も、全て、世界をどう見るか、どう把握するかということのなかでのあるディメンションにおけるリアリティーであり、同時に、その全てがひとつの神話であるといえる。大事なことは、その神話をリアリティとして体感的に信じ、コミットできるかどうかであり、そのコミットのためにはその神話を自分たちの物語として、自分事として読めるかどうかにかかっているだろう。そのためには、時代や場所にあったかたちでの再解釈が必要になるかもしれない、はたまた物語を読み進める中で、自身の身体が変化していくかもしれない。そのことは現時点では、分からないが、このコミットメント、つまりはその神話がひとつのリアリティとなっていくことが、今後も課題となり続けるだろう。