河合隼雄『影の現象学』

近代になると、第三番目の因果論はだんだんと強さを増すと同時に仏教的な倫理的因果論としてよりも、自然科学的因果論として急成長を遂げ、第一の命題である死後の生命の存在を否定すると共に、極楽・地獄の存在をもあっさり迷信として打ち消してしまったのである。かくて、支えを失った地上の世界に混乱が生じてきたのも当然のことである。 この新しい事態に対処するためには、第二にあげた善悪の判断および、その賞罰の問題が大きく取り上げられればならぬことは当然であろう。しかし、この点についての改変を行わず、単純に第二の問題を古来からのままで継承するときは、どうなるであろう。結局、人々は因果論を信奉しつつ、この世に極楽を建設しようと試みるだろう。この有難い仕事に熱中する人々は、これに反対する悪人はもはや地獄において罰せられぬことを知るゆえに、この世において罰せられねばならないと考えはじめる。かくて、極楽をこの世に建設しようと志す人々によって、この世に地獄が出現せしめられることになる。ロレンス・ヴァン・デル・ポストは、この絶望的な時代のもっとも著しい特徴は、人々が「悪事をするための良い理由」を見つけることだと述べている。「良い理由」に従って、アメリカがベトナムに、ソ連チェコスロバキアに何をしただろう。人々に快適な生活を約束する良い科学の進歩は公害を生み出すことになった。 われわれがこのようなパターンにあきたらなく思うとき、いったいどうすればいいのだろうか。さりとて、われわれは地下に地獄の存在を認めることはもうなし得ない。ここで、われわれはかつての人類が思想の完結のために、世界を死後の世界や他界にまで拡張したように、ひとつの世界の拡張を行うべきではないだろうか。それは、われわれの心の世界の拡張であり、われわれの知っている心の世界の下にーーあるいは上にーーより広い領域の存在することを認めるべきであり、それは取りもなおさず、おのれの心の中に地獄を見出すことになるであろう。おのれの心に地獄を見出し得ぬ人は、自ら善人であることを確信し、悪人たちを罰するための地獄をこの世につくることになる。心の世界を拡張するということは、近代科学によって否定された魂の存在について、もう一度見直すことにもなるであろう。 pp.167-169 ・秘密 ユングにとって前述の夢は大きい意味をもつものであったが、彼はこの夢をずっと他人に語らずにもちつづけた。彼がこの夢を他人に伝えたのは晩年のことであるし、これについて述べている『自伝』は彼の意思によって、彼の死後に発表されたものである。彼はその『自伝』の中で、「人間にとって大切な『個』としての感情を強めるには、その人が守ることを誓った秘密をもつことが一番いい方法である」と述べている。地底の世界が地上の世界を支えるように、秘密は個人の意識の底のほうに存在して、個の存在を強固にするための支えとなっている。 pp.175-176 秘密とはそもそもそれを明らかにすることがなんらかの意味で、個人なり集団なりの存在を脅かすような類のものであることが多い。そのために秘密を守ろうとする反面、それをもっている個人はその重みに耐えかねて、誰か他人に打ち明けたくなるのである。秘密は他人に話すことによってその重みが減少する。もちろん、それを聞いた人はそれなりの重みを引き受けることになるが。 秘密は自我の存在を脅かすと言った。しかし、そのような脅かしに耐え、自我がその秘密を自我の中に入れようと努力しつづけるとき、その個人はむしろ個性実現の道を歩みつづけることになろう。 p.178 ・道化 本来、すべての事物は多様であり多価値的である。しかし、われわれ人間はそれらに「統一」を与えるために多くの事物のもつ多様性を切りすててしまっている。しかも、その世界に安住する人は、その事物の多様性を疑ってみることもなく、単層な世界構造を唯一のことと信じて生きている。道化がしばしば行うトンボ返りなどのアクロバットは、このような空間の顛倒や破壊を象徴的に示すものである。道化の一言は、王を愚者につきおとし、愚者を王に仕立てあげるほどの威力をもっている。これによって人々は、固定した世界の「開け」を直覚し、新しい価値観の導入に酔って、そこに創造的な生命の流れを体験する。ここで、王の地位をさえ危うくするほどの、既存の安定感をつきくずす危険性は、道化のもたらす笑いによってカウンターバランスされる。笑いは道化のもつ唯一の武器であり、もっとも強力なものである。笑いを失ったとき道化は命を失う。 pp.191-192 ・トリックスター 道化あるいはトリックスターが創造的活動のなかに占める役割の重さから考えても、ある人が人生を創造的に生きようとするかぎり自分の心の内部のトリックスターと常に接触を失わないことが必要であることは事実である。王や英雄への同一化を急ぐあまり道化性を失ってしまった個人は、いかに弾力性に欠け、危険性に満ちたものになるかはすでに見てきたとおりである。さりとて、われわれはトリックスターと同一化するものでもない。その時に応じて、あるいは状況に応じて、われわれはトリックスターとして機能することになろうが、それは、われわれがトリックスターになりきってしまうことを意味しないのである。トリックスターとの同一化が進めば進むほど、その人は自分の行為について意識することが少なくなり、左手と右手を争わせたトリックスターのように、その行動の病理的な面が強調される。トリックスターの働きに対応する王の存在が、その個人の心の内部にあるいはその周囲の人間の中に見出されるときは、トリックスターの働きは破壊が新しい秩序の発見へとつながる創造的なものとなる。 p.214 ・創造性 ある個人の心の中に生じる創造過程を簡単に記述してみると次のようになるだろう。まず、その人は新しい考えや、知識の新しい組合せを試みるために、意識的努力を傾けるであろう。しかし、そのような試みがどうしても無駄だと解ったとき、その人の意識的な集中力は衰えはじめ、むしろ外見的にはぼんやりとした状態となってくる。このとき、今まで自我によって使用されていた心的エネルギーが退行を生じ、それは無意識のほうに流れていく。このようなときは、その人は一種の混沌の状態を体験するわけであり、まったく馬鹿げた考えや、幼稚な思いつきや空想が心の中をよぎる。そこで、その人はその馬鹿げて見える考えを簡単には否定せず、自由に動くにまかせていると、そのあるものはだんだんと力をもってきて、自我の存在をおびやかすほどにもなってくる。 ここに意識と無意識の対立が生じるが、それをそのままで長く耐えることが大切である。この対立関係を中心としながらも、無意識は相変わらずはたらき、様相を変化せしめたり、また新しい内容を出現せしめたりする。そのうちに、これらの対立を超える調和が発見され、対立する両者の片方が否定されることによる決定ではなく、両者を生かす形での統合の道がひらけてくる。ここに創造の秘密がある。このとき、今まで無意識内に逆流していたエネルギーは反転して自我のほうに流れはじめ、ここに再び力を得た自我は、新しい統合の道を現実とのかかわりのなかで堅めてゆくことになる。 pp.297-298 創造過程に不可欠な影とはいったい何であろうか。影とはそもそも自我によって受け容れられなかったものである。それは悪とは同義語ではない。特に個人的な影を問題にすると、それはその本人にとっては受け容れるのが辛いので、ほとんど悪と同等なほどに感じられているが、他人の目から見るとむしろ望ましいと感じられるものさえある。しかし、創造性の次元が深くなるにつれて、それに相応して影も深くなり、それは普遍的な影に近接し、悪の様相をおびてくる。かくて、「悪の体験なくしては自己実現はあり得ない」とさえいわねばならなくなってくる。pp.298-299 ***