村上隆『芸術闘争論』

芸術闘争論
芸術闘争論
村上 隆 幻冬舎
 

・今日のアートー情況と歴史 いってみれば戦後の日本は、首輪をつけられないで育てられてしまった犬のようなものです。「自由」という名の野良犬が我々です。だから、社会という首輪をはめられてしまったらつらくて仕方がない。日本社会は今、国家として成立していないわけです。みんな首輪をはめられるよりは野良を選んでいる。首輪をはめられるよりは野良でいいというわけです。 ぼくは美大の先生たちを糾弾するみたいなことを言いましたが、実は先生たちの言い分の方が生徒たちには受け入れやすいはずです。なぜなら、ぼくはルールという首輪をつけないと社会とつながらないよ、ルールを身につけると社会に出ることができるよ、そういう種類の自由があるよ、という話をしているのに、美大の先生たちは学生に社会とつながらなくてよいといっているからです。 首輪というとネガティブに感じられるかもしれません。けれど、これをルールと考えたらどうでしょうか。日本は世界の中にあるのです。ハイブロウアート対日本で考えると、日本の中だけで野良犬をやって、それで自由だといっても仕方がないのではないか。むしろ世界のルールを拒絶することで、社会とつながる自由、世界に出て行く自由、世界のアートシーンで活躍する自由を失っているのではないか。それがぼくの言いたいことです。pp.67-68 では、「具体的にはどうやって歴史を学ぶか」を最後に述べてこの章を終わります。 ぼくは、よくこう言っています。若手の芸術家や芸術家志望の人、特に日本の芸術家が勉強する場合、第二世界大戦少し前くらいから現代までを徹底的に勉強すればよ良い。そこにあらわれているフォーマットによって戦争と芸術、戦争と国家、国家が成熟するあり方がほぼわかる。だから、第二次世界対戦をはさんだ頃からの芸術史を学べば、他の時代にも応用できます。p.70 ・鑑賞編 美大生たちは、こういうことをやれば現代美術になるということを知らないと思います。彼らは「村上さんの時と私たちは違う」と言っています。そうではないのです。変数や条件に変化はあっても、この方程式はぼくらの頃と「違わない」のです。それが現代美術です。 つまり、さきほど述べたように歴史が重層化しなくてはいけない。同じ日本人だったら狩野山雪あり金田伊功あり、日本の美術は実はマンガだよといった辻惟雄先生がいて、歴史が串刺しにならなければ現代美術ではないわけです。 美大生は決してそれを理解しようとしません。彼らは「自由になりたい」のです。自由=アート。第一章では貧=芸術=正義という貧神話についてお話ししましたが、今度は自由=芸術=正義という自由神話です。 この神話があるかぎり、彼らはぼくの授業を受けても、絶対に現代美術のアーティストにはなりません。その代わりに彼らのいうところの「自由人」になるのだと思います。そして、「なぜ私は、アーティストじゃないんですか、こんなすばらしい自由人なのに」と悩むわけです。 でも、さきほどからずと口をすっぱくしていっているように、現代美術は自由人を必要としてない。必要なのは歴史の重層化であり、コンテクストの串刺しなのです。 p.110 ・実作編 宗教的な部分に救済を求めるのは当たり前ですが、絵画は先に書いたように宗教とともに歩んできたので救済装置として長けている。音楽もそうだと思いますが、絵画、彫刻というのは救済構造にとりわけ長けています。 その中で近代以降、現代の芸術における救済というのは今述べたようなある種、心の中に欠けた部分を持っているアーティストが、欠けたままで芸術作品を作っていることが芸術作品を見て理解できると、見たものは癒される、救済されるということがあります。だから、コンテクストには作家が考えているだけではなくうて、その作家の持っている宿命みたいなものがこの重層性の中に忍び込んでいるわけです。p.184 ・未来編 アーティストが自分の芸術的なものを引っ張りだそうと思うのなら、どうか日本式自由神話から脱出してください。内向的な作品、私小説的な作品は絶対ダメです。だいたい、絵が下手で内省的なものを誰がみたいと思いますか。ぼくらアーティストになるような落ちこぼれは、猿回しの猿になって玉の上に乗っかるしかないのです。だから、どうか、私小説的な作品は今すぐやめましょう。そうではなくて、本当に真剣なお笑い芸人のように笑いを取るなり、命がけで作品を作るなりして、国際的に見ても、これはすごい、こんなとんでもないことはできないというくらいでなくてはならないと思います。p.240 矛盾して聞こえるかもしれませんが、自分の内なる欲望にきちんと向き合うということは内輪受けする私小説的な作品を作って自己満足することとは対極にあります。ですから、作家になりたいのであれば美大で身につけるような私小説っぽさというのは全部忘れて、自分の中にある核心部を発見してそれを一点突破するようにして欲しい。 それには、これまでに述べたように、コンテクストを持った芸術=西洋式ARTのルールを知ることです。あまりにも「自由神話」への信仰、自由真理教への信心が支配し、ルールを支配しようとすることすら拒否反応が示されます。しかし、それでは芸術を創造する自由は得られません。自由は無制限に転がっていない、ルールを発見し、その中での自由を獲得することが芸術の歴史です。p.242 けれど、冷静に考えてみてください。とにかく無節操に自由でいたい。人の顔を潰そうが何をしようが自由がいちばん。社会構造を理解するより自由な立場を優先したい。しかし、うまい話にはのりたい。のっても、そのうまい話を自由気ままに好き勝手やりたい。それはできない相談です。しかもキャリアも成功例もそれほど持ち合わせていない。それなのに、どうして自分の今の社会的立場を理解しようとしないのか。それは、そういう訓練を受けてこなかったし、仲間内でも社会に馴染まないことが正義という共通理念が発酵熟成してしまったからかもしれません。p.266 *** 村上さんの言説からは伊東豊雄の「消費の海に浸らずして新しい建築はない」って言葉を思い出させられる。