R・ヴェンチューリ『建築の多様性と対立性』

彼らの作品に見られる多様性と対立性は見過ごされることが多いようである。例えばアアルトを評して、人は、彼の自然の素材に対する感覚や細かなディテールを称賛するものの、建物全体の構成は絵画風であることを狙ったものであると見なすのが通例である。 p.41

多様性と対立性を備えた建築には曖昧さと緊張とがつきものである。建築は形態であるとともに実質でもあり、抽象的であるとともに具体的であり、そしてその意味は、内部の特徴からとともに外部の環境から引き出されるのだ。建築の各要素は、形態としてもまた構造としても、表面としても材料としても把握される。このような固定的でない関係、すなわち多様性と対立性が、建築の方法の特徴である曖昧さと緊張の源泉なのである。p.47 アアルトはコルビュジエとは対照的に、ヴォルフスブルグの文化センターに見られるように、不整合をもととして秩序を形成していくように思える。 p.82

アアルトやコルビュジエの多くの作品においては、標準的な技術による直行線と、例外的な状態を表現する斜めの線との間に、均衡もしくは緊張が得られている。アアルトのブレーメンのアパートでは、基本的にはコルビュジエの高層アパートの住居単位に基づきながらも、日光と眺望を求めて斜めの線が用いられている。p.100

建物内部の大切な働きとは、空間に方向性を与えるのではなく、空間を囲い込むことであり、外と内を区切ることである。カーンは「建物とは、物を碇泊させるところである」と言った。古来、家の機能は、心理的にも物理的にも、プライヴァシーを産み出し、守ることにあった。ジョンソン・ワックス・ビルは、外部と内部を積極的に区分するという点において、古来からの伝統を一層深化させている。ライトは、そこで、壁で内部を囲い込むばかりでなく、内部に落ちる光を散乱させて、外部の光と区別するようにしている。そうしたやり方は、ビザンチン、ゴシック、バロックの建築から、コルビュジエやカーンに至るまで、多彩な工夫がなされている類いのものである。内部は、外部とは確かに異なるものなのだ。 p.130

内部と外部の対立のもうひとつの現われ方は、外壁と、内周面とが離れていて、その間に空間ができる時である。ここに示した図は、外壁と内周面にはさまれた隙間の種類の数例を示す。

フィリップジョンソン ニュー・キャナンの彼自身のゲストハウス内部のキャノピー

ポート・チェスターのシナゴーグ内部のソーン風キャノピー

内部の層の例

カーン 二重になった外周壁に、形も大きさもとりどりの窓を並置することで、室内の光は散乱させられる。光の調節  p.146

アアルトのイマトラの教会でも、内と外の窓の間には距離が置かれ、空間と光に変化がもたらされている。 p.150

構造上の必然性によってではなく、外観上の要請によって作られた閉ざされた残存部分というものは現代建築には余り例がない。わずかにアアルトのユニークなコンサート用舞台がある位のものだ。 p.152

アルド・ファン・アイクは次のように言っている。「建築とは、明確に規定された媒介空間(残存部分)を形成することだと考えられる。だからと言って、主空間はほったらかしのままでいいとか、絶えず変転してもいいというのではない。その反対に、空間の連続性を重んずる現行の概念とか、外と内、ひとつの空間と他の空間、ひとつの存在と他の存在などの、空間相互の間の区分を消滅させてしまおうという傾向とは、はっきり袂を分かつものである。空間相互は、双方にとって重要なものを保ちつつ、明確に規定された媒介空間を介して結びつけられるのだ。その意味で、媒介空間は、反目し合う両極が再び相対現象に帰するような、共通の土壌をもたらすのである。」p.153

残余の空間は厄介者扱いされることもある。柱や梁などの構造体によって占有されてしまう部分と同様に、残余の空間は経済的な利点はないからだ。それは、いつも放置され、より重要なものに仕える運命にある。しかし、この種の空間は本来、対比、緊張、限定を伴うものであり、「建物は良い空間とともに悪い空間を持つべきだ」というカーンの言葉も納得されようというものだ。p.153

狭いところに多くを詰め込んで混沌とした複雑さを産みだすことと同様に、必要以上の囲いを設けることもまた、現代建築には滅多に見かけられない。コルビュジエやカーンの幾つかの主要な作品を除き、現代建築においては、このような多様な空間を作ろうという考えは等閑視されがちだった。 p.153

対立性をかかえた内部空間は、すべての空間の統一性と連続性を旨とする現代建築には受け入れられないのだ。同様に、何層も重ねたり、さらにそれらを体位法的に併置されたりすることは、形態や材料を経済的・整合的に用いるという現代建築の趣旨に合わない。また、きちっとした境界(堅固な枠組)の内側に複雑さをかかえ込むことは、建築の内部より発して外部に至るという現代建築の教義と矛盾する。 p.154

正反対のものからなる建築とは、すなわち包括的な全体ということである。イマトラの教会の内部とか、ヴォルフスブルグの文化センターのまとまりは、矛盾し、また偶発的な部分を排除したり圧迫するのではなく、すべて包括してしまうことで達成されている。静穏な建築においては単純化がなされるのに反して、アアルトの建築は、微妙かつ難しいプログラムをそのままに受け入れてしまうところがある。p.190

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