アルヴァーアアルト『エッセイとスケッチ』

  人間にとって必要な生物学的条件は、空気、光、太陽等である。(中略)光と太陽。極限状態にあっては、住宅への日当りを成行きまかせにすることは、もはやできないであろう。住むことの基本条件として、光や太陽は重要であるので、現在の偶然性に従った状況は変えられなければならない。それには、基準としてのどの住宅にも日が当るというだけでなく、その日射角度を一度の狂いもなく決定すべきである。太陽はエネルギーの源である。しかし、それを科学的に正確な量を使用した場合にのみ、住居の壁の内にある家庭生活や個人生活に対し、生力学的にプラスの要素となるのである。p.44 まったく注目されない、あるいは少なくとも無視されがちな事柄は、光の質の問題である。光の質とは何を意味するのか?光は、人間が常に必要としている現象である。この点で光の正しい質の問題は、人間と時々にしか接触しない物よりも重要である。純粋に技術的な事柄はー器具やその可動の部分、製作方法等は、色々な観点から合理的に扱われ、かなり完全であるが、その肝心な役割である人間のための照明、目の衛生に適した照明、そして一般に人間にとって重要なその質の問題は後回しにされている。p.62 これらの照明が、視覚的要求や人間の心理学的要求を合理的に処理することを軽視しても、普通の家庭では、多分はっきりと目立った罪にはならない。しかし、もし話を個人の家庭から、病弱な大量の人々を扱わなければならない病院に移すとすれば、われわれは以上に述べた快適性という薬では、その欠陥を正すことはできないことに気が付くであろう。病気で弱っている人々には、精神的焦燥感や(視覚神経のいらいらなどのように)心理的なものに隣合った肉体的な過敏性が健康人以上にオーバーに表れる。(中略)照明器具の慣例的な配置ー天井の中心に取り付ける古典的な方法は、変えなければならない。それぞれの解決はある程度は妥協案ではあるが、一番弱い状態に或る人間を観察すれば簡単に得られるのである。 p.62 人工光線に太陽光線と同じスペクトルを与えても、良い結果は得られないと報告されている。なぜならば、人間は太陽光線スペクトルの一定の量的配合に依存しているからである。以上のことは次のようにもいわれている。ローソクの黄色い炎や女性の室内装飾家が黄色の絹布によって光を構成しようとする傾向は、電気技師の光量計や「白い光」という図式的な概念よりは、人間の本能に近いものである。p.62 それらの問題に付属する多数の要求を扱い得るように合理的アプローチを拡大すべきである。われわれは技術や一般衛生の面だけでなく、個人の健康上の必要に、心理的な限界あるいはそれ以上に至るまで、詳細に入り込んで、合理的に調べるべきである。実用芸術の長い豊かな伝統から得た経験は、価値ある研究材料をわれわれに提供していることはもちろん明らかである。 p.63 図書館に関する主要な問題は人間の眼の問題である。図書館は、この問題が解決されなくとも、うまく建てられ、技術的な点で機能的であり得る。しかし、もし建物の主たる人間的目的である本を読むことを十分に取り扱っていないとすれば、それは人間的に、または建築的に完全ではない。眼は人間の身体のほんの一部である。しかし最も敏感で、最も重要なもののひとつだ。目に不適当な自然光や人工照明を使用し、人間の目を痛めることは、建物が構築物としてどんなに価値あるものであったとしても、反動的な建築を意味するのである。p.92 普通の窓を通して入ってくる日光は、大きな部屋のほんの一部に当るだけだ。部屋が十分明るくなったとしても、その光は均一ではなく、場所によって一定してない。そのため、図書館、美術館やその種のものでは一般に上から来る光を使っている。しかし床と同じ大きさのトップライトでは、余程の調整装置が付かない限り、光が多すぎる。ヴィープリの図書館では、その問題を、数多いトップライトをつくることによって解決し、そして光が間接光になるようにしてある。丸いトップライトは技術的に合理的である。 私自身、建築の問題を解決しなければならない時には、ほぼ例外なく常に乗り越えることの難しいある種の「朝の3時間の勇気」という障害が立ち現れる。建築デザインというものが無数の互いに矛盾しあう要素を操作することであるという事実の複雑で強い圧力であると私は考える。社会的、人間的、経済的、技術的要求が心理学的問題と結び付き、個人およびグループ、グループ間および個人間の動きや内的摩擦と関係しながら、全体として複雑なもつれを形成するのである。これは合理的あるいは機械的な方法では解決できない。種々の要因や無数の問題が障害となって、建築の基本的アイディアが表われ難くしている。このような時に私は、時には本能的にだが、次のようにする。作業の雰囲気や多種多様の要求を無意識のなかに刻み込んだら、この複雑な問題をある期間忘れるのである。その後、抽象芸術を思わせる作業に移る。ただ本能が導くまま、建築的総体をではなく、時には全く子供っぽい構図を描くのである。そして、このルートを通って、抽象的な基盤から、無数の矛盾しあった問題を互いに調和させるコンセプト、一種の普遍的な実体に至るのである。 p.141 建築とそのディテールはある意味で生物学的に関係していると思う。たぶんそれらは大きく成長した鮭か鱒のようなものであろう。生まれた時から大きいのでもなく、いつも住んでいる海や湖で生まれるのでもない。生活圏から遠く何百マイルも離れた、川が狭くなり渓流となる川間の澄みきった水の中の、氷河から落ちる最初の雫の下で生まれるのである。それは人間の本能や感性生活が、日常の仕事から遠く隔たっているのと同じである。 小さな魚卵から成魚になるまでには時間がかかるのと全く同じで、思考の世界の中で発達し結晶となる物はすべて時間を必要としているのである。建築には、この時間が、他の創造的仕事以上に必要なのだ。フォルムの遊びのように見えるが、長い時間の後で、思いがけずに実際的な建築形態が生まれたという私自身のささやかな経験が、これを物語っている。 p.141 抽象芸術の採光のものはある種の結晶化の過程の結果である。たぶんそれ故、芸術作品の内部や背後に構成主義的な考え方や人間悲劇のあやが隠されていたとしても、それは純粋に感情を通してのみ把握されるのである。ある意味で、それは書かれた言葉ではほとんど失われてしまう純粋な人間的感性の流れの中にわれわれをつれこむ媒体である。 p.142 建築は当然地面に接して局地的に縛られているので、ナショナルであるばかりでなくローカルである。しかし形態を通し、世界で起こっているインターナショナルな影響を受けることができる。結局、出発点あるいは終点が何であれ、これら両方の結合が現代世界に必要な調和ある結果を生み出すのである。そこでは、ナショナルとインターナショナルの概念は互いに分離されることはできないのである。 p.204 ***