村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

  

灰田 生まれつきなぜか、ものを作ることが不得手なんです。小学生のときから簡単な工作ひとつ満足にできません。プラモデルさえうまく組み立てられません。頭の中でものごとを抽象的に考えるのが好きで、どれだけ考えていても飽きないんだけど、実際に手を動かしてかたちあるものをつくることができないんです。 p.54

灰田 何はともあれ、できるだけものを深く考えていたいんです。ただ純粋に、自由に思考し続けたい。それだけです。しかし純粋に思考するというのは考えてみれば、真空を作っているようなものかもしれませんね。 p.54

灰田 自由にものを考えるというのは、つまるところ自分の肉体を離れるということでもあります。自分の肉体という限定された檻を出て、鎖から解き放たれ、純粋に論理を飛翔させる。論理に自然な生命を与える。それが思考における自由の中核にあるものです。 p.66

灰田(父) 緑川さんにそういう経験があるのですか?何かを受け入れ、信じて、論理性を超えて跳躍したような経験が?

緑川 俺は何も信じない。論理も信じないし、非論理も信じない。神も信じないし、悪魔も信じない。そこには仮説の延長もないし、跳躍みたいなものもない。ただそれをそのものとして黙して受け入れるだけだ。それが俺の根本的な問題点だよ。主体と客体を峻別する壁をうまく立ち上げることができない。

緑川 才能というのはたしかに時として愉快なものだ。見栄えもいいし、人目も惹くし、うまくいけば金にもなる。女も寄ってくる。そりゃ、ないよりはあった方がいいだろう。しかし才能というのはみな、灰田くん、肉体と意識の強靭な集中に支えられて、初めて機能を発揮するものだ。脳みそのどこかのネジがひとつ外れ落ちてしまえば、あるいは肉体のどこかの結線がぷつんと切れちまえば、集中なんぞ夜明けの露のように消えちまう。 p.84

緑川 死を引き受けることに合意した時点で、君は普通ではない資質を手に入れることになる。特別な能力と言ってもいい。人々の発するそれぞれの色を読みとれるのは、そんな能力のひとつの機能に過ぎない。その大本にあるのは、君が君の知覚そのものを拡大できるということだ。君がオルダス・ハクスレーがいうところの『知覚の扉』を押し開くことになる。そして君の知覚は混じりけのない純粋なものになる。霧が晴れたみたく、すべてがクリアになる。そして君は普通では見られない情景を俯瞰することになる。 p.89

緑川 それがどんなものだか、口で説明するのは不可能だ。自分で実際に経験してみるしかない。ただひとつ俺が言えるのは、いったんそういう真実の情景を目にすると、これまで自分が生きてきた世界がおそろしく平べったく見えてしまうということだ。その情景には論理も非論理もない。善も悪もない。すべてがひとつに融合している。そして君自身もその融合の一部になる。君は肉体という枠を離れ、いわば形而上的な存在になる。君は直感になる。それは素晴らしい感覚であると同時に、ある意味絶望的な感覚でもある。自分のこれまでの人生がいかに薄っぺらで深みを欠いたものだったか、ほとんど最後の最後になって君は悟るわけだからな。 pp.89-90

緑川 実際に跳躍をしてみなければ、実証はできない。そして実際に跳躍してしまえば、もう実証する必要なんてなくなっちまう。そこには中間ってものはない。跳ぶか跳ばないか、そのどちらかだ。 p.92

 自分の中には根本的に、何かしら人をがっかりさせるものがあるに違いない。色彩を欠いた多崎つくる、と彼は声に出して言った。結局のところ、人に向けて差し出せるものを、おれは何ひとつ持ち合わせていないのだろう。いや、そんなことを言えば、自分自身に向けて差し出せるものだって持ち合わせていないのかもしれない。 p.124

 僕は昔からいつも自分を、色彩とか個性に欠けた空っぽな人間みたいに感じてきた。それがあるいは、あのグループの中での僕の役割だったのかもしれないな。空っぽであることが。 p.169

沙羅 彼女は、なんて言えばいいのかしら、色が薄くなって見えたの。強い陽光に長い間曝されて、全体の色彩がまんべんなく褪せてしまったみたいに。見かけは前とほとんど変わらない。相変わらず美人だし、スタイルもいいし・・・。ただ、前より薄く見えるだけ。(中略)顔を合わせるたびに、彼女は更に少しずつ色合いを薄くしていった。そしてある時点からは誰の目にも、彼女はもう格別美しくはなくなったし、とりたてて魅力的でもなくなってしまった。頭もいくらか悪くなったみたいだった。話も退屈になり、意見は月並みなものになっていった。彼女は二十七歳の時に結婚したんだけど、夫はどこかの官庁のエリートの役人で、見るからに薄っぺらな、つまらない男だった。でも本人には、自分がもう美人でも魅力的でもなく、人目も惹かないんだということがよく理解できなくて、昔と同じに女王様のように振る舞っていた。それをはたで見ているのはけっこう重かった。p.219

 僕はこれまでずっと、自分のことを犠牲者だと考えてきた。わけもなく過酷な目にあわされたと思い続けてきた。そのせいで心に深い傷を負い、その傷が僕の人生の本来の流れを損なってきたと。(中略)でも本当はそうじゃなかったのかもしれない。僕は犠牲者であるだけじゃなく、それと同時に自分でも知らないうちにまわりの人々を傷つけてきたのかもしれない。そしてまた返す刃で僕自身を傷つけてきたのかもしれない。p.318

 エリ あいつもまだ純粋な心を持ち続けている。それは私にもよくわかる。だけどこの現実を生き延びていくのが大変なだけなんだ。そして二人ともそこで、それぞれに人並み以上の成果を上げている。彼らなりに力を尽くして、まっとうに。ねえ、つくる、私たちが私たちであったことは決して無駄ではなかったんだよ。私たちがひとつのグループとして一体になっていたことはね。私はそう思う。たとえそれが限られた何年かしか続かなかったにせよ。(中略)私たちはこうして生き残ったんだよ。私も君も。そして生き残った人間には、生き残った人間が果たさなくちゃならない責務がある。それはね、できるだけこのまましっかりここに生き残りつづけることだよ。たとえいろんなことが不完全にしかできないとしても。 pp.320-321

 僕にはたぶん自分というものがないからだよ。これという個性もなければ、鮮やかな色彩もない。こちらから差し出せるものは何ひとつ持ち合わせていない、そのことがずっと昔から僕の抱えてえいた問題だった。僕はいつも自分を空っぽの容器みたいに感じてきた。入れ物としてはある程度形をなしているかもしれないけれど、その中には内容と呼べるほどのものはろくすっぽない。自分が彼女に相応しい人間だとはどうしても思えないんだ。(中略)僕は怖いんだ。自分が何か間違ったことをして、あるいは何か間違ったことを口にして、その結果すべてが損なわれ、そっくり宙に消えてしまうかもしれないことが。p.322-324

 エリ 駅がなければ、電車はそこには停まれないんだから。そして大事な人を迎えることもできないんだから。もしそこに何か不具合が見つかれば、必要に応じてあとで手直ししていけばいいのよ。まず駅をこしらえなさい。彼女のための特別な駅を。p.324

 多崎つくるには向かうべき場所はない。それは彼の人生にとってのひとつのテーゼのようなものだった。彼には行くべき場所もないし、帰るべき場所もない。かつてそんなものがあったことはないし、今だってない。彼にとっての唯一の場所は「今いる場所」だ。

 いや、そうじゃないな、と彼は思う。

 よく考えてみればこれまでの人生で、向かうべき場所をはっきり持っていたことがただ一度だけある。高校時代、つくるは東京の工科大学に入って、鉄道駅の設計を専門的に学びたいと望んでいた。それが彼の向かうべき場所だった。(中略)

 そしてその結果つくるは、名古屋を出て東京で一人暮らしをすることになった。東京にいるあいだ彼は、一刻も早く故郷の街に戻り、またしばしのあいだ友人たちと顔を合わせていたいと渇望した。それが彼の帰るべき場所だった。そのように二つの異なった場所を行き来する生活が、一年と少し続けられた。しかしある時点でサイクルは唐突に断ち切られた。p.356-357

 東京は彼にとってたまたま与えられた場所だった。かつては学校のある場所だったし、今では職場のある場所だった。彼は職能的にそこに属していた。それ以上の意味はない。つくるは東京で規則正しく、もの静かに生活を送った。国を追われた亡命者が異郷で、周囲に波風を立てないように、面倒を起こさないように、滞在許可証を取り上げられないように、注意深く暮らすみたいに。彼はいわば自らの人生からの亡命者としてそこに生きていた。そして東京という大都市は、そのように匿名的に生きたいと望む人々にとっては理想的な居場所だった。p.357

 楽園はいつしか失われるものだ。人はそれぞれに違った速度で成長していくし、進む方向も異なってくる。時が断つにつれ、そこには避けがたく違和が生じていっただろう。微妙な亀裂も現れただろう。そしてそれはやがて微妙なというあたりでは収まらないものになっていったはずだ。p.363

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 デタッチメントについて書き続けてきた村上春樹が、これからのコミットメントのありようをどのように書くのか気になっていたけれど、他者と切り離された冷めた世界観から一転して、再び感情を込めたかたちで他者と関わろうとしている態度にとても共感した。

 これまでの作品ではどこか場所性のない茫漠とした無味無臭の世界が広がっていたけれど、今回は名古屋、フィンランド、多崎つくる、木元沙羅等々固有名詞が頻出し、場所や共同体への関わりへの意識がはっきり感じられる。世界と切り離された「僕」の自己完結した物語(パラレルワールドとはつながるけれど)ではなく、三人称で表現される相対的な立場としての「多崎つくる」が共同体とどう関わっていこうとしているのかが話の中心で、びっくりするほど作風が変わっている。

 また「絶望の国の幸福な若者たち」ではないけれどただの地元志向の仲良しグループのつながりの話ではなくて、様々なものが不可逆に変化し、かつての理想的な共同体も理想的な状態から変化せざるを得ないなかで、再度新しい関係性を築いていこうとする態度にもとても共感した。共同体から理由も分からないままに一度はじき出され、大都市の中で、亡命者として、匿名的に生きようとしてきたのだけれど(それはこれまでの作品の主人公のように)、30代後半になって再度他者と人間的な関係性を快復しようと試みていて、そこではにおいも体温も色彩も、たしかに存在している。

 

 他者や場所から自分を切り離し自己完結したミクロコスモスをつくろうとしたデタッチメントの時代から、成熟し縮小していく社会のなかで、弱った者同士の互助的な関係性をその土地土地で築いていこうとするコミットメントの時代への移行は、建築の世界でも全く同じことが起こっていて、例えば近代初頭は閉鎖的で土地から切り離された建築が好まれたのだけれど、このごろだと地域性・風土性や共同体といった事柄への意識がかなり高まっている。三低主義のなかで隈さんが住宅は福祉の別名だって言っていたけれど、もう高度成長期のように独力で何もかもを手に入れて生活していく時代ではないし、弱った者同士いかに助け合って暮らしていくかを真剣に考えなくてはならないのだけれど、デタッチメントの時代の代表格のような村上春樹でさえ、そのような意識へ完全に移行していることに驚かされた。

 しかし名古屋、高校時代の友人との関係、設計、フィンランド、水泳などなどと自分に関係のありそうな単語が次から次へとでてきて気味悪いほどでした。共同体や他者へのコミットメントへの関心だけでなく、ものづくりやデザイン、また成熟した社会の手本としてのフィンランドへの関心も被るようならますます村上春樹のこれからに注目しないといけない。