養老孟司、隈研吾『日本人はどう住まうべきか?』

 

結局、僕らの仕事で面白い建物を建てられるのは、いわゆる都市計画からこぼれ落ちた、そういう既得権でしか建てられないような、ヘンな場所です。(中略)建築としては、そういう物件の持ち主から声がかかるのが一番「やった!」と思うときですね。結局、一般解なんか求めずに、例外を探していけばいいんです。本当はすべて例外なんですね。

養老 ありとあらゆるケースを、サラリーマンはルールで縛って均質にしたがるんです。

隈 スーパーやコンビニと同じ発想ですね。

養老 その方が能率がいいというわけだけど、でも矛盾する部分は全部、現場に押しつけてるんですね。だから別な言い方をすると、サラリーマンは「現場がない人」です。

養老 現代人は感覚が鈍いですから。自分の感覚が鈍いということに気がつかないぐらい、鈍いんです。だから、身体が享受している情報を、意識の方が無視してコンピューターを信用したりするんだよね。それは大きく言うと、この社会を覆う「システム問題」と一緒です。あらゆるものを形作る非常に複雑な要素を、頭が無視している。

隈 都市にしても、住居にしても、家がプライベートな空間だと思ったときから、いろいろな間違いが始まったのではないかと僕は思っています。プライベートという思いがさらに進むと私有になる。自分の一生の財産であり、人生の目標だと思い込むと、ペンキのヒビ一本許さなくなるでしょう。 p.98

隈 よく言われる「都市のにぎわい」も、実際にプランナーやコンサルタントが理屈で考えて、ものすごくお金をかけて不自然なことをやって、やっとこさ人が少しだけ集まるような感じです。お金をかけなくても生まれる「にぎわい」というものは、他にいろいろあるはずなのに、「にぎわい創造」というビジネスになった途端、僕ら建築屋の常識で言うと、とても不自然なお金の使われ方が平気でなされてしまう。 p.150

イエズス会の理念は、一言で言えば現場主義に尽きる。逆に言えば、彼らが批判し敵対したルターたちの宗教革命は、一種の頭でっかちであった。聖書を徹底的に読み込んで自省することで、天国に迎え入れられるというのが、宗教改革のテーゼであった。(中略)それに対し、イエズス会は現場主義で戦おうとした。個人主義、内省主義は、人を頭でっかちな観念主義者におとしめると、ロヨラたちは考えた。ロヨラはそもそも軍人で、しかも若いころはプレーボーイでならしていた。軍人もプレーボーイも、観念主義、個人主義から最も遠い人たちである。(中略)そして現場主義とは、本論の言い方に従えば「だましだましの思想」ということになる。 p.184

建築家や都市計画家を志す者は、多かれ少なかれユートピア主義者としてスタートするのである。(中略)いざ、その妄想の実現となると、「だましだまし」を駆使しない限り何一つとして夢は成就しない。そのように、妄想は鍛えられて「計画」に到達する。あるいはヴィジオネールは、鍛えられて建築家となる。現場というものに打たれ続け、たたかれ続けながらも、計画する意欲を失わなかった者だけが、建築家となるのである。 p.190

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