アレックスカー 犬と鬼

振り返ってみると、日本の「進歩」や「豊かさ」に対するスタンスは、だいたい四五年から六五年までの間に確立してきたものばかりだ。経済が空前の成長率を示し、今ある産業や銀行、官僚組織の原型が生まれてきた時期である。六〇年代に定まった思考回路と、二一世紀の現実とのミスマッチーーそれが現在の「文化の病」となっている。 p.38 現代文化史の三段階 第一段階 自然と一体になって生きる 第二段階 工業化 ピカピカの加工品が豪華であか抜けているとされる 第三段階 脱工業化 新しい近代像への以降 テクノロジーは自然や伝統文化と結びつくようになる 日本ではどうも第三段階への以降が阻止されているようだ 古くて自然のものは「汚い」「迷惑」それどころか危険  p.38 教育 エドウィン・ライシャワー駐日大使はこう述べている。「大学で四年間、つまらない講義を受け、ほとんど勉強しないで無為に過ごすのは、効率優先の国にしては信じられないほどの時間の浪費ではないか」。とすれば答えはただひとつ、日本はほんとうは大学など必要としていないとしか考えられない。「一八歳になるころには、日本の子供は完全な羊になっている」と宮本は言った。「牧草の羊が自由など意識しないように、日本の大学生は自由には無関心なのだ」。つまり、大学生になるころには訓練はすでに終わっているわけだ。大学はおまけなのである。大学は、高等教育という巨大な「建て前」だ。社会人としての訓練が企業や省庁で始まる官僚国家では、大学には真の意味での社会的必要性がない。 p.307 かいつまんで言えば、戦後日本の教育システムは、日本の次世代を幼児化しようとしている。どこに行っても「危険!」と「危ない!」っの警告が鳴り響いていることは、心理学的な研究が必要だと思わせる。 p.316 *** 環境問題から官僚制、教育に至るまで、いかに日本が田舎くさく、辺境のおかしな論理で動いているかということを400ページにわたって延々と説明してくれる。極論や引用元不明なデータも多く、日本人のなかでも説明されるような論理で動いていない人が存在するのは確かなのだけれど、日本の多数派について大掴みに理解するにはかなり的を射ていてわかりやすい。 「わび」や「しぶい」などの古い言葉に取って代わって、90年代に代わって登場したのが「かわいい」であったという指摘にみられるように、日本は幼児的で未成熟なものを価値として認めるということが無意識に行われているのかもしれない。それは河合隼雄が日本社会を母性社会と名付け、母性社会は包容的、受容的であると同時にその成熟を阻もうとすると説明したこととも共通していて、社会全体で幼児を育てるように手取り足取りサービスを提供しようとしているのだろう。それが父性社会のアメリカの学者から見て極めて奇妙なものとして映るのも無理からぬものなのかもしれない。