東浩紀・北田暁大 東京から考える

おそらく、東京という相対について思想的に語るなのてことは、もはや不可能だし無意味なんですね。けれども、他方で、いまも東京が生きて動いていることは事実で、それについて何か語りたいような気もする。 pp.66 東京の郊外の新興住宅地というのは、いままでひとが住んでいなくて何の物語もないところに、(…)デベロッパーが新しい物語をかぶせて作られていくわけですよね。(…)あたらしい地名をつけ、過去の歴史を消して、新しい物語を作る。 pp.67 ひとつは「国道16号線」的な郊外。ロードサイドショップが軒を連ねている均質空間としての郊外。(…)もうひとつは「青葉台ーシーサイド」的な郊外。フィクショナルに空間が整備された地域。 pp.95 もともと郊外というのは共同幻想によって成り立つ場所なわけで、その意味では青葉台も幕張ベイタウンも同じなんだけど、青葉台のほうがそのイデオロギー的な頑強性は強いかもしれませんね。 pp.108 東 東京では高級住宅地の概念が崩壊してきている。ただ地価の傾斜だけがある。 北田 六本木という場を消費するひとたちの文化階層は、はたして高いということができるか? 東 たしかに。ぼくはよく言うんですが、IT化の効果のひとつは、富の配分と知の配分の切断にある。金がなくても知識が手に入るようになり、富と教養が連動しなくなってきた。 北田 かつての文化人街みたいに、富と文化階層との結びつきが空間的に表現されることはなくなってきている。 東 つまり、ある地域に住んでいるひとの所得が高いとは言えるけど、「文化資本」が高いとは言えなくなりつつある。 pp.134 北田 ファスト風土化に抗いうる都市があるとするならば、一つは汐留のように物理的・意味的に郊外的な者が入り込む余地のない都市。もう一つは、住人以外の来訪者の多くない、そして、住人が〈「入れ替え可能性」を高めることはよくない〉〈都市は舞台として固有の物語性を持っていなくてはならない〉という幻想を共同的・人為的・意識的に再生産し続けるような街でしょうね。青葉台なんかがそうでしょう。ジャスコ的郊外化に抗いうるのが、生粋のシミュラークル的郊外であるちう逆説があるように思います。 pp.158 ***