内田樹『もういちど村上春樹にご用心』2010

  

 実際には、私たちは意味もなく不幸になり、目的もなく虐待され、何の教化的意図もなく罰せられ、冗談のように殺される。天変地異は善人だけを救い、悪人の上にだけ電撃や火山岩を落とすわけではない。もっとも惜しむべき人が夭逝し、生きていることそのものが災厄であるような人間に例外的な健康が与えられる。そんな事例なら私たちは飽きるほど見てきた。

 では、世界はまったく無秩序で、すべてのことはランダムに起きているのかといったら、そうではない。そこには部分的な「秩序のようなもの」がある。世界を包摂するような秩序を作り出すことは誰にもできない。けれども、手の届く範囲に限れば「秩序のようなもの」を打ち立てることはできる。科学的に思考し、フェアに判断し、感受性が鋭く、想像力の行使を惜しまない人々が集住している場所であれば、そのささやかな集団内では何か秩序のようなものが無秩序を相対的には制するだろう。

 けれども、それはあくまで、一時的、相対的な勝利にすぎない。その「何か秩序のようなもの」を一定以上の範囲に拡げることはできない。そのような「ローカルな秩序」はローカルである限りという条件を受け容れてのみ秩序として機能し、普遍性を要求した瞬間に無秩序のうちに崩落するからである。

 レヴィナスが書いているように、正義を一気に全社会的に実現しようとする運動は必ず静粛か強制収容所かその両方を採用するになる。歴史はこの教訓に今のところ一つも例外がないことを教えている。

 私たちは「父」を要請してはならない。たとえ世界のかなり広い地域において、現に正義がなされておらず、合理的思考が許されず、慈愛の行動が見られないとしても、私たちはそれでも「父」の出動を要請してはならない。「ローカルな秩序」を拡大しようとするときに、私たちはひとりひとりの「手の触れる範囲」を算術的に加算する以上のことをしてはならない。村上春樹エルサレム・スピートでの言葉を使えば、「命と命を繋ぐ」以上のことをしてはならない。

 私は「父権制イデオロギー」に対する対抗軸として、「ローカルな共生組織」以上のものを望むべきではないと考えている。思弁的にそう思うのではなく、経験がそう教えているのである。 pp.64-65

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 久しぶりに再読してみて気づいたけれど内田先生の思想も河合隼雄やアアルトの「特殊から普遍へ」の思想と通ずるものがあってこの箇所も今はすんなりと受け容れることができた。「父」の要請というものはイデオロギーによる世界の統合であり、システムによる統治である。それがいかに人間を疎外し、静粛か強制収容所かはたまたその両方かを人間に迫るものであるかということは歴史が教えるところであるが、社会が混乱し秩序が実現しにくい時ほどに人は「父」の要請の誘惑に駆られる。現代日本で言えば新自由主義ナショナリズムがその「父」なんだろうけれど、その父が社会の一切を合理的で秩序だったものとしてくれるという夢は単なる幻想に過ぎず、むしろその幻想の「父」の動員は人間を支配し抑圧することにつながる。人間社会を安定的に運営していくことができ秩序を保証してくれる普遍的な解など求めてはいけないし、秩序の実現は常に「ローカルな共生組織」という特殊的な状況のなかで目指すべきである。