北田暁大 広告都市・東京

〈発見〉されるべき差異が消失したとき、資本システムは広告という意味媒体によって差異を自己生産し、私たちの欲求を創出する。資本システムを稼働させる際が、空間的・時間的なものから離脱し、広告によってもたらされるイメージ的・記号的なものとなっている社会のことを、社会学では「消費社会」と呼んでいる。 pp.20-21 近代都市の空間秩序の模像=シーへブンは、表象が現れ出る文脈・舞台を人為的に整序した空間であった。そこでは、私たち=トゥルーマンが違和感を覚えることのない「当たり前の」ランドスケープが緻密な計算のもとに設計されている。(…)そのような空間のなかで、脱文脈性を本質とする広告を黙らせておくこと自体最初から無理があったのだ。 p.42 受け手の視覚を直接刺激する華美な屋外広告は、どうあっても秩序だった都市の風景をかき乱さずにはいられない。それは、日常的な景観からの差異化(脱文脈化)を命じる「資本の論理」の当然の帰結だ。だが、そうした脱文脈的な屋外広告のあり方は空間の秩序を希求する「近代都市の論理」が好む〈文化〉的な意匠を与えて、都市の景観のなかに溶かし込んでしまえばよい。(…)個々の商品、店舗の認知希求を旨とするネオンサインから、企業の〈文化〉的イメージを(長期的に)作り出す文脈適応的な広告=都市へ。 pp.60-61 モノの使用価値を創造する「生産者」、記号の外部に位置して自らに反省的に向かい合う「私」といった超越者は存在しない。「使用価値」とか「上っ面ではない、本当の私」といった、記号の向こう側にある「実体」「実在」が摩滅し、すべてが「オリジナルなきコピー」によって覆いつくされた経済ー社会システム(シミュラークル)。それがボードリヤールの言う消費社会なのである。 pp.82-83 上野 「消費社会の果てしない差別化という悪夢は、そのしくみごと破壊したり、逃れたりできるようなものではない。私たちはその中から「少しだけましな悪夢」を、価値のヨコナラビに対して、やっと運ぶことができるだけだ。 p.84 ディズニーランドが差し出す記号システムが外部に触れ「自己完結性」を失うことがないようにすること、そして、閉鎖的な記号空間のなかでゲストが「与えられた役割を演じていく」ように仕向けていくことーーディズニーランドとは、「地域が育んできた記憶の積層から「街」を離脱させ、閉じられた領域の内部を分割された場面の重層的シークエンスとして劇場化していく」パルコ的な空間戦略を、もっとも純粋な形で実践した「夢空間都市」だったのである。 p.89 〈八〇年代〉的な広告=都市の基本原理は、外部から隔絶された閉鎖的な記号空間を構築し、そこに内在する人びとを「シブヤらしい」「パルコっぽい」役者として主体化していく、というものであった。そこには、外部の現実空間を不可視化さえすれば、アイデンティティ装置としての空間が構築されうるという信念、つまり、「三次元的な空間を操作することによって、人びとの主体性を操作することができる」という(近代建築学を支えてきた)空間神話が息づいていたといえよう。 p.164 ***