建築的事象にみるメタファと身体知

 

2016年8月4日

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 レイコフ・ジョンソンによれば、メタファーの本質は、「ある事柄を別の事柄を通して理解し、経験することである(注1」という。「われわれが普段、ものを考えたり行動したりする際に基づいている概念体系の本質は、根本的にメタファーによって成り立って(注2」いるのであり、われわれの思考はロゴスそれ自体というよりも「なぞらえ(注3」に依存している。「概念」とは、それ自体のもつ「固有の属性」によって定義されるものではなく、むしろ各人にとっての意味のことなのであり、それは多くの場合において他の概念へのなぞらえによって理解される。たとえば、ある人が「君の主張は守りようがない」と言う場合、その人は「議論」というものを「戦争」や「争い」になぞらえて理解していることを暗黙のうちに認めているのであり、「議論」という未知の事柄についての説明を、「戦争」という既知の事柄を通して行っているのである。

 このようなメタファーの働きは、詩的な表現形態においてのみ役立つ修辞的な文飾の技巧であると思われていることも多いが、レイコフ・ジョンソンによればメタファーとはそのような限定的な働きをもつものではなく、あらゆる思考や行動、言語活動一般にいたるまで我々の日常の営みに深く浸透しているものであるという(注4。

 たとえば、自然科学的な客観主義はメタファーから最も遠いものであるとしばしば見なされ、客観主義という神話においては、「人間は客観主義であることができ、それは明確に正確に定義された言葉、現実とぴったり一致している言葉を用いた場合に限られ、メタファーその他の修辞的な表現は使うべきではない(注5」と考えられる。しかしながら実際には客観主義における理性の働きとされるもの(カテゴリー分類、含意、推論等々)には、必ず物事のある一面のみに着目し、別種のものと結びつける「メタファー」的、「なぞらえ」的思考を伴っている。たとえばニュートンがリンゴが木から落ちるのをみて万有引力の仮説を立てる際、リンゴの密度、質量、形状といった物理的諸要素に着目しては、それを地球という別の物体のそれと結びつけ、その枠組みの中においてある法則性を見つけだそうとする。そこでは、果物である、赤色である、甘い味がする等々のリンゴの別の側面は無視されているのであり、リンゴの物理的側面のみが選択的に抽出されている。自然科学的手法は、万人に共通の普遍的手法でありメタファーとは一見無縁のものように見えながら、ニュートンの例をみても物事の有する多面的性格のある一面のみを抽象し、他の要素と結びつける「メタファー」的思考が垣間見える。

 その反対に、ロマン主義的に代表されるような主観主義では、詩的メタファーは純粋なる想像力の産物であって理性の活動とは無縁のものであると時に考えられるが、そのような考え方も極端なものであり事実を歪めている。主観主義という神話においては「客観主義は抽象的・普遍的・非個人的たらんとして非人間的になる可能性がある。感情や審美的感受性を知るために客観的・合理的方法などない(注6」とし、理性・科学・客観性が軽視され詩的メタファーが偏重されるが、実際のところ日常生活におけるあらゆる物事の理解は概念体系に基づいて得られているのであり、その概念体系は物理的文化環境からは逃れられない。たとえば「時は金なり」という比喩を用いる場合、「時間はわれわれが目標を達成するために使う、限りある資源である」ということが意味されるが、このような比喩が成立するのは時間が貴重な品物であり、限りある資源であり、お金そのものであるかのごとく行動しているわれわれの文化環境を前提としているがゆえのことである。しかしながら、これはすべての人類が時間を概念化するうえでとらなければならない手法では決してなく、時間がこのような概念としては捉えられない文化は世界に数多く存在する。このような例ひとつをみても、個人の独創や創造性の産物とだけ考えられがちなメタファーも実際には文化的背景といった客観的枠組みからは逃れられないことがわかる。

 さらには、このような詩的メタファーにおいても、先のリンゴの例の場合と同じように、「循環するもの」「流れるもの」「使ったり節約したりするもの」等々の時間の有する様々な側面のうち、「使ったり節約したりするもの」という最後の側面のみに着目し、同様の役割をもつ「お金」と結びつけているのであり、ここでも抽象化による含意(ある面を際立たせ、ある面を無視する)という理性の働きが隠されている。レイコフ・ジョンソンも指摘する通り、メタファとは「想像力を働かせた理性活動」なのであって、理性と想像力を結びつけその間を橋渡す両義的な存在なのである。

 ではこのようなメタファーは建築及び建築設計の場面においてどのような役割を果たしているのであろうか。

 建築家はしばしば、自身が設計した建築を説明する際、「壁が立ち上がる」「部屋は前庭に向く」 「空間が内部に人を導く」「緑を取り入れる」「人々を包み込む」 「雨風に耐える」「荷重を支える」等々、建築物自体を主体に見立てたような言語描写を行うが、このような表現形態は建築家の言説を注意深く観察してみればほとんど無数に存在している(注7。これらの弁説の多くは無意識的なものであり、発話者自体は自身がそのようなメタファー表現を用いていることについて無自覚であろうと考えられるが、先の例をみても、「人間の身体感覚という既知の事柄に基づきながら、建築という別の事柄について理解する」というメタファー的思考を建築家は暗黙のうちに行っており、メタファー的ななぞらえによる物事の理解は建築設計の現場においても不変的に見出せることがわかる。

 それは近代における代表的な建築家の言説においても同様で、たとえば、ル・コルビュジエは近代建築史における金字塔的作品であるサヴォア邸(1931)を設計した際、「住宅は住むための機械である」という言説を残し、現代における建築は工業製品のように世界共通の普遍的なものでなければならないとした。この言説は建築史に刻まれ、以後の建築に爆発的な影響を及ぼすわけであるが、よくよく考えてみればこのような言説の場合においても先の「客観主義の神話」の場合と同様に、「機能性」という建築のひとつ側面のみに着目し、それを「機械」という別の事柄に結びつけて理解するというメタファー的思考を伴っている。モダニズム建築は客観性と普遍性を謳っては自身の有する価値の揺るぎなさを主張するわけであるが、その底にはメタファー的思考による含意が潜んでいるのであり、その含意によって無視されている事柄は数多く存在する。

 それはコルビュジエの他の言説にもあらわれていて、たとえば、「建築とは、光の下に集められた立体の薀蓄であり、正確で、壮麗な演出である。われわれの目は光の下で形を見るようにできている。明暗によって形が浮かび上る。立方体、円錐、球、円筒または角錐などは原初的な形で、光ははっきりと浮び上がらせる。(注8」というコルビュジエによる有名な建築の定義をみても、「陰影が映し出される量塊」という造形芸術としての建築の側面がクローズアップされている一方、「人間が住まう場所」という建築の居住環境としての当たり前の側面は、それが無視されていることに気づかないほどに自然なかたちで選択的に無視されている。

 コルビュジエが中心となって築き上げてきた建築におけるモダニズムは、建築と場所、人間の身体、歴史や超越者との関係を切断しては、RC造や幾何学形態に基づいた自由で普遍的な形態を追い求めてきたわけであるが、60-70年代以降になるとそのようなモダニズム建築に対して、「禁欲的で親しみが持てない」「均質で非場所的である」「歴史性が欠落している」等々の批判がなされるようになる。これらはすべて、先の「住宅は住むための機械である」というメタファによる含意によって切り落とされてしまった価値への揺れ戻しの動きであるといえ、モダニズム建築が追い求めてきた客観性と普遍性が、ひとつの抽象化されたモデルの中においてのみ成立しうるものであることを端的に物語っている。

 もちろんそのようなモダニズム建築が見落とした価値を再考していった建築家は数多く存在し、その代表的な人物の一人にルイス・カーンという建築家がいるが、カーンの建築において重視されるのは、モダニズムがあまり重きを置いてこなかった人間の身体や超越者との関係である。カーンの言説を追ってみても“Structure gives light makes space.”(構造体は光を与え、光は空間を作る。)、“ The Plan - A society of rooms is a place good to live work learn.”(平面図-部屋による社会-は良く良く住み良く働き学ぶための場である。)等々、建築に主体性を認めるような「メタファー」的、「なぞらえ」的理解の例には事欠かない。カーンの場合においては最初に述べた建築家の言説と比較すると、より意識的なかたちで建築という無生物に主体性を認め、人間の生活感覚に照らし合わせて理解しようとしている態度をみることができ、モダニズムによって切断されてしまった人間と建築の関係を再接続するような動きとして理解できよう。

 そして、このようなモダニズムが切り落とした価値との再接続を試みたのは、フィンランドの建築家アルヴァ・アアルトの場合においても同様である。ただカーンと異なるのは、アアルトの場合、超越者との関係よりも場所や自然との関係というものが重視され、さらには建築についての言説ではなく建築それ自体のうちにメタファを潜ませる点である。たとえば、アアルトの真っ白な内部空間における陰影の微妙な変化は北欧の雪景色における「白色」の質的な多様性というものを物語っているのであり、アアルトが図書館建築で好んで用いた扇型のプランも、太陽の光を求めて放射状に広がってく植物をモチーフとしている。 その他にもオーロラ、太陽、湖、蜂の巣、木立等々、北欧の自然の事象のメタファーの例には事欠かず、アアルトの建築においてはこれらのメタファーが人工物と自然という対立物を結びつけるシンボルとしての役割を担っているといえる。

 このようにメタファーは、いかなる場合においても、異質なる両者を結びつけ橋渡しする働きをもつのであるが、その橋渡しのあり方としては、推論や含意の過程のように、多くの人が認める物事のある側面を強調しより別のカテゴリと結びつける場合(建築は住むための機械である、等々)もあれば、詩的メタファーのように物事のこれまであまり着目されなかった一側面に注目し思いもよらぬ別種のものと結びつける場合(室内空間と雪景色、等々)も存在する。いずれの場合にせよ、メタファーはある事柄を抽象しては、別の事柄と結びつけるという「想像力を働かせた理性活動」なのであり、人間の思考過程(当然、建築設計も含む)の基本となるものであるといえよう。

注記

1 G・レイコフ、M・ジョンソン(1980)渡部昇一、楠瀬淳三、下谷和幸訳『レトリックと人生』大修館書店、6頁。

2 同書、3頁。3 尼ヶ崎によれば、レイコフ・ジョンソンのいうところのメタファーは日本語にするのであれば「隠喩」よりも「なぞらえ」の方が適切であるという。尼ヶ崎彬(1990)『ことばと身体』 勁草書房、130頁。

4 レイコフ・ジョンソン、前掲書、3頁。

5 同書、265-267頁。

6 同書、267-268頁。

7 たとえば、以前の研究室の知人は、「新建築」という建築雑誌のバックナンバーを1945-2010年まで集め、このような表現を1027箇所にわたって見つけだしている。

8 ル・コルビュジエ(1923)吉阪隆正訳『建築をめざして』鹿島出版会、38-39頁。