ローカライゼーションはグローバライゼーションの原点か

 

2016年11月28日

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 グローバライゼーションが進んだ現代社会のなかにあって、仮に英語が話せて海外で仕事ができるようになったとしても、そこに自分の拠り所とするものがないのであれば、それはただ世界の潮流に自己を埋没させては世界中をせわしなく移動し続けるだけの根無し草の存在になりかねない。自分が誇りとできること、得意としていること、受け継いできたこと等々、他者あるいあ世界との関係のなかで自分を措定できる軸のようなものがなければ、それは空虚な話であり、また真の意味での国際人にもなれないように思われる。

 だがその反対に純粋なる日本の伝統、あるいは自身のアイデンティティというものをひたすら追求するような態度もそれはそれでおかしな話であり、他者、あるいは時代との関係なしにはじめから唯一無二のかたちで存在する自分らしさというようなものもただのフィクションでしかない。我々はグローバライズされた現代社会のなかに生きているのであり、常に世界文化との相互作用のなかで日々の生活を営んでいる。そのような時代状況のなかで、ひたすら地域とのつながりや日本人であることの特殊性だけを訴えてみても、それは現実とのつながりを欠いたただのノスタルジーにしかなり得ない (そしてそれは過去の時代においても同様であろう)。実際には、自己の立場、他者との違いというものは他者あるいは世界と関係しその相対的な関係性のなかで徐々に浮かび上がってくるのであって、他者との比較なしに絶対的に存在するものではあり得ない。言い換えれば、自分が日本人でいることを真に自覚するためには国際人でなければならいのであり、ローカライゼーションがグローバライゼーションの原点となるのと同様にグローバライゼーションはローカライゼーションの原点となる。両者は常に相互規定的であって、一方がもう一方を介在せずして存在するということはあり得ないだろう。

 

 そしてこれは建築や都市の問題についていっても同様のことがいえる。現代建築においては世界共通の普遍的建築を目指すモダニズム建築がその主流となっているが、それはグローバライゼーションと同様、その単一的性格に大きな特徴がある。だが現実には世界共通の建築を実現するためにその土地の地域性・場所性といったものを排除しようすればするほど、逆説的にそれらを拾い上げてしまうということが言われてきており、世界共通の普遍的建築などひとつのフィクションに過ぎないということが疑われるようになってきた。また、その反対にその地域に根ざした風土的な建築を追求する向きもあるが、これは観光地などをみてもわかるように、その場所の特殊性というものを一義的に追い求めてしまうと、現実との繋がりを欠いたどこにでもあるようなノスタルジックなテーマパークが出来上がってしまうという逆説的事態に陥る。実際のところ、世界共通の普遍的建築と地域に固有の特殊的建築といった両極はともにフィクションに過ぎないのであって、その片方を一義的に追い求めれば反転して全く逆の結果を生んでしまうこととなる。大切なことは中庸の精神といってしまうと平凡な結論であるが、このような相異なる方向性に引き裂かれながらそれらを統合していくことは建築設計におけるひとつの重要な役割であるといえるだろう。