二度の金融危機の先に見えるものとは?

  

2016/11/14

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 経済危機というと、なにか自然災害のような不可避的な現象のようにも聞こえるが、実際には地震津波等と違ってほとんどの部分が実際の人間の経済活動によって引き起こされた事象であるといえ、それは現代社会のある種の矛盾と行き詰まりを示している。

 そもそも資本主義とは資本が自己増殖をしていくところにその特徴がある。それは、資本主義が常に開拓していく「フロンティア=周縁部」を必要としているとも言い換えることができよう。戦後、高度成長期のようにに冷蔵庫、車、テレビといった耐久消費財に代表されるような「モノ」が不足していた時代においては、製造業などに投資しては利潤を得るというスタイルが一つのスタンダードであった。

 さらにそのような成長スタイルは二割の先進国が八割の途上国からエネルギーや人的な資源を安く買うことを前提としており、そのことによってのみ先進国の全体としての成長というものが成立していた。成長とはより早く、より豊かになることなのであるから成長には資源の消費が不可欠であり、それゆえ途上国が近代化され先進国と同じような生活を目指せばその人口分だけエネルギー消費が倍増していくことに繋がってしまい資源が不足してしまう。現実には途上国が途上国であってくれたゆえに、先進国は全体として経済成長ができたのであり、これから同じように新興国が発展して地球全体として半永久的に成長していくことなど資源が無尽蔵に存在しない限り有り得ない。

 さらにそのようなかたちの実物投資による利潤の追求は、モノが豊かになり市場が飽和してくるにつれ利潤率が低下し、資本の拡大再生産ができなくなっていく。そのような資本主義の限界は70年代頃にはすでに見えていたのであるが、そこで資本主義が自己延命するために見出した方策は、電子・金融空間という仮想空間の創造である。これはITと金融自由化が結びついてできた空間のことであり、これによって資本は瞬時にして利潤を得ることが可能となった。70年代半ばにおいてすでに実物投資による資本の拡大はすでに縮小傾向にあったが、80年代では個人の貯蓄率は比較的高く、これから時代が大きく変わっていくような期待もまだあり、土地や証券といった新たなフロンティアを探しては、それが値上がりし続けていくという神話のもとにマネーを注ぎ込んでいった。これによってバブルが引き起こされ、資本主義が正常運転しているかのような偽装を図ったのであるが、そのような虚偽はすぐさまバブル崩壊といったかたちでその矛盾を露呈することになる。バブルの生成過程において富が偏在していく一方、バブル崩壊によって企業は解雇や賃下げなどリストラを断行させ中間層は没落し、格差は拡大していく。その結果、購買力が落ち消費は落ちこみ、それへの対処という名目で超低金利国債の増発が行われ、資本の自己増殖のためにバブル経済も厭わなかった結果、超低金利に陥るという矛盾に至るのである。

 現代社会のもう一つの特徴はグローバリゼーションである。グローバリゼーションとはヒト・モノ・カネが国境を越えて自由に移動するプロセスと捉えられがちであるが、実際にはグローバリゼーションとは中心と周縁からなる「帝国システム」と「資本主義システム」にあって、中心と周縁を結びつける、あるいは中心と周縁の組み替えを行う作業のことであるといえる。中心と周縁の対立はかつてはそれは先進国と途上国というかたちで現れていたのであるが、途上国が成長して新興国に転じて満足できる利潤が獲得できなくなると、新たなる「中心」と「周縁」の構図への組み替えの作業が必要となる。資本が国境をやすやすと越えていく現代では、それはかつてのように国家間の対立としてではない国家の内部における二極化の構造として現れてくる。それは端的にいえば米国におけるサブプライム層であり、日本における非正規社員である。リーマン・ショックは先進国が実物投資では成長できないがゆえに、ヴァーチャルな空間で無理な膨張(高レバレッジサブプライムローンなどの欠陥金融派生商品)をさせた結果、それが破裂して起きたと言われる。

 以上のような流れをざっと眺めても、社会全体としての成長という考えは近代の一つの神話に過ぎず、そのような意味においての資本主義はすでに矛盾が露呈してきていることは否定しがたいであろう(より正確にいえば、資本主義ははじめから矛盾を内包していたのであるが、それが国家間の矛盾としてではなく国家内における矛盾として身近なところで露呈しはじめてきた)。

 一般論として既存のシステムがある問題を抱えている場合、既存システムをひたすら強化する方向を推し進めるのであればその矛盾は一層露わなものとなっていく。資本主義についていえば、既存の成長戦略をこれからも推し進めていくのであれば、「中心」と「周縁」の構図は、それがどのような組み合わせであれ、よりはっきりとしたかたちで現れてくるであろう。現代日本を引き合いにだせば、インフレ目標公共投資法人税の減税や規制緩和などこれまで通りの成長戦略を推し進めていくのであれば、また新たなバブルを生んで富が一部に集中し、中間層が没落しては格差が拡大して階級間の対立は深まっていくであろう。それは良い悪いの問題ではなく、資本主義の有しているある種の一面性を示している。労働基準法規制緩和非正規雇用の拡大、ホワイトカラーエグゼンプション等々、すべて新たなる「周縁」の開拓であり、「中心」が新たなる「周縁」を求める構図自体は変わっていない。

 昨今では「成長」の戦略に対置させて「縮小」の戦略ということも言われるが、それがどの程度現実味があることなのかは個人的にはまだよく分からない。ただ「社会全体としての成長」というイデオロギーが資源が無尽蔵に存在することを前提とした神話に過ぎないことは確かであり、実際にはさらなる成長を欲すれば新たなる周縁が必要になってくる。それを良しとするかどうかは政治的問題であるが、ある意味において世界の最先端を行っている日本社会においては特に、資本主義の矛盾を直視し、それによってこぼれ落ちた価値というものを再考していくことが必要になってくるであろう。

参考文献

C.ダグラス・ラミス(2004)『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』、平凡社

ポール・クルーグマン(2008)『格差はつくられた』、早川書房

水野和夫(2014)『資本主義の終焉と歴史の危機』、集英社