斉藤環『ヤンキー化する日本』

  ・与那覇潤 補助輪付きだった戦後民主主義那覇 東京女子医大で遺伝学をやっていらした鎌谷直之先生が、日本人は統計学と遺伝学が苦手で、純粋数学は得意なんだということを言っていて、その中でおもしろい仮説を立てられていたんです。日本人は、閉じた世界のシステムを現実と結びつけるのは苦手だけど、閉じた世界の中であれこれ操作するのは得意だというんですね。(…) 戦後、西欧型の社会民主主義の政党がうまく育たなかったことにもつながりそうですね。日本社会党にはブレーン集団の学者はいたけど、彼らの世界観はマルクス古典学の世界に閉じていて、実際に党を動かすのはヤンキー系の労組の人たちになっているという。 斉藤 実践にあたるのが末端のヤンキーで、ブレーンは現実を信じていないために、そういう解離がなかなか解消されない。pp.151-152 与那覇 『「空気」の研究』で知られる山本七平は、日本人とは日本教徒」のことであり、その内実は「人間教」だと言っています。人間教とは”人間、裸になればぶっちゃけみなおなじ だから、わかり合えるはず”という発想のことですね。日本人はそう信じているから、自他の”違い”を明確にしてゆくような、切断的な言葉の使い方はできない。 斉藤 「日本教」のボトムには、やはり「神道」があるような気がします。教義も教祖もない中空構造だけに、あらゆる「信仰」を包摂してしまうメタ宗教的な位置づけですね。p.159 ・隈研吾 「和風建築」というつくられた伝統 隈 丹下さんもボキャブラリーとしては教養主義的なものをちりばめていますが、文脈というような一貫したものというより、飛び道具みたいな感じになっていて。それは磯崎さんなんかでも同じです。建築の世界に批評家はあまり存在しませんが、そもそも、批評家のような知的で冷静な人は居場所がない(笑)。評論的な言語は、建築家がオラオラとして使うものになっているんです。(…) 建築というのは、とりあえずできちゃったらいいって世界ですから。そのためにはいろいろ相手を脅さないといけないし、できてしまえば、「一丁あがり」になります。現場の職人にしても、「この建物に命懸けるぜ」というように、できるまでは必死にやっていく。そのようにモノ自体が目的性を持ってしまう風土がある気がします。p.235 隈 おたくとヤンキーというのは、ノンヒエラルキーな二〇世紀的工業社会が崩れてきた中で人間が生きていくための二つの道なんだと思います。おたく的な建築ってなんだろうと考えると、思い浮かぶのは妹島和世さんです。彼女はオラオラの逆で、自分はこれまでどんなひどい目に遭ってきたかということをいうから、みんな大好きになります。その才能はすごいと思います。プレゼンにおいてもオラオラではない素直さが、逆に希少価値のようなものに感じられ、「この人は信じるに足るかもしれない」と思わせられる素朴さがあるんですね。作るものも、とがっていなくて、ザハの反対です。 斉藤 現代の日本においては、ヤンキー的な器の中におたく的なコンテンツが入っている構造のものがヒットするとも言われています。ジブリのアニメなどは、おたくが作ってヤンキーが売っているとも言われてますが、建築家はそれを一人でやんなきゃいけないのかなという気がします。p.245 ***