河合隼雄『こころの最終講義』

  コンステレーション 日本文化というもの、あるいは、日本の社会というものが、母なるものの元型にすごく大きい影響を受けて動いている社会なんだなということを思いました。(中略)それが「母性社会」というふうな言葉になりまして、発表したりしたわけですが、これが時々誤解されまして、「母性社会なんて言ったって、日本にはこのごろ母性的な女性が少なくなった」なんて言う人がいますが、そんなことを言っているのではないんですね。私が母なるものと言っているのは、もっと元型的なもので、すべてをのみ込んでいくとか、あるいはなるべくみんな一緒にやりましょうとか、個性というものを磨減するようなネガティブな面ーーもちろん、ポジティブな面もありますーーをもつ、そういう意味で母性社会と言っているわけです。やはり母なるもののコンステレーションということは、日本人全体の問題ではないかと思ったわけです。 p.30 ・物語と心理療法 もっともっと耳を澄ました場合に、語っているのはクライエントが語っているとか、私が語っているというのではなくて、もっと深いところから「語り」が行われているのではないかという気もします。つまりクライエントの「語り」だけで終わったら、一階限りのクライエントだけの話、私が勝手に言うだけなら私だけの話です。ところが、もっともっと深いというのは、二人が共通にもっと普遍化されたところからの語りということがあるのではないだろうか。それを語った場合に、事例研究というものが、一つのことを話しながら普遍性をもってくるのではないか。 それはどういうことかというと、物語がずっと時代を超えて生き抜いてくるということと似ていると思います。昔話でも、有名な昔話、すごい昔話というのは長い長いあいだ生き長らえてきているのです。『源氏物語』はいま読んでもほんとうにおもしろい。あるいは『とりかへばや物語』もいま読んでもほんとうにおもしろい。ということはある個人が語りながら個人を超えている。個人が自分のことを入れながら語って普遍性をもつということと、私が私を排除してこのコップの形状はこんなんですとか、質量いくらのものが落下するとどのようになりますとかいっている場合は、「私」は抜けているのです。物語は「私」を入れているのです。「私」を入れつつそれを普遍性にまでもたらすような物語ということはいったいどうしてできるのだろうか。われわれはそれを語るための努力をしなければならないのではないかと思います。 p.96 ・隠れキリシタン神話の変容過程 遠藤さんが言われるように、われわれは十六世紀のときに一ぺん正面衝突して、そこから日本人が西洋をどう取り入れていったかを知ることは非常に大事だと思うのです。その上で非常に幸いなことに、隠れキリシタンの神話が残っていたわけです。 ここでちょっと面白いことを紹介しておきますと、エラノスで発表しましたら、みんなすごく面白がられて、二時間ある質疑応答のトップに、ある方がこう言われました。私の話を聞いていると、私はキリスト教のもとの神話と隠れキリシタンの神話がどう違うかと言ったけれども、「おまえはどうして神話というのか。われわれはバイブルに書いてあることをリアリティーだと思っている。おまえはそのリアリティーをどうして神話というのか」と。 これはさすがにヨーロッパへ来ただけのことはあるなあと思って感激しまして、「それは確かに面白い質問ですが、あなたはリアリティーということを言われましたが、あなたはそれをどういう意味で使っているのか、こっちが聞きたい。あなたはまさか私が話しているまわりの壁をリアリティーと思っておられるのではないでしょうね。われわれはこれを幻想だと思っているんですが」といったのです。つまり、恩寵リアリティーとか神話についてはいろいろな考え方ができるわけで、「神話も現実だ」という言い方もできるし、「われわれが現実と思っていることも神話なんだ」という言い方もできるわけです。 そういうことをちょっと面白く言いましたら、その人ははっとわかりまして、「あっ、わかった。おまえが使っている神話というのは、ディメンションの異なるリアリティーをそう呼んでいるんだと了解すれば非常によくわかる」といわれました。なかなかわかりがいいので関心したんですが、私が「神話」と言っているのはそういう意味なんです。 つまり、この世の現実をどう見るか、どう把握するか。私から言わせると、自然科学というのも、そういう意味でいうと、広い意味での神話のひとつなので、われわれが外的現実といっているものをコントロールするのに非常に便利な神話である、という言い方もできると思うのです。 pp.120-121 世界がどうできてきたかという考え方に、ここが始まりだという時があって、しかもその始まりの時点で唯一の神が全部つくり給うたとうい考え方、そういうパターン。片方は、どこからともなくふわっと自然にできあがってくるという、そういうパターン。このように、大きく二つに分けますと、日本は、なんとなくだんだんできあがってくる、自然発生的にできあがってくるというほうの考え方でできている。世界というものをそのように見ている。そこへ、唯一の神がこの世界をつくり給うたという全く違う考え方がポーンと入ってくるわけですから、それに対してものすごく感激した人と、そんな馬鹿なことはないと受け付けなかった人とがいるわけです。 pp.122-123 *** 日本が母性社会であるという話が序盤で出てきたけれど、日本人の横並び志向や同調圧力のようなものも日本社会が母性社会であることが大元にあるのだろう。父性社会であればより自由主義的で、個性を尊重し、実力重視ということになるのだろうけれど、その反面、実力が足りないものに対してはばさっと切り捨ててしまうところがある。対して母性社会である日本の社会は何をやるにしても皆で一緒にやりましょうという側面が強く、一度仲間になった人に対してはよほどのことがない限り切り捨てたりはしないという側面をもつ一方で、飛び抜けて高い能力を持つ人や個性的な人間を無意識のうちに抑圧してしまう側面も存在する。カースト制も横並びの身分制度であり実力によって階級上昇を実現できるわけでないという点で非常に母性的な制度なのだろうけれど、そのようなカースト的な身分制度は現代日本社会の中でも色濃く残っている。そのひとつが偏差値入試や終身雇用制であり、それは高校卒業時点でどの大学に入れたかによってその後の人生における社会階層が概ね決まってしまうという現代における「身分制度」となっている。一度階層が固定してしまった後は、よほどのことがない限り階層移動することは許されず、そのわずかなチャンスとして大学院入試などがあるわけであるが、ここですらも階級上昇することは「学歴ロンダリング」と揶揄されることになる。近代化にあたって自由と平等が重視されるなか、万人に平等なチャンスを与えつつ自由に進路が決定できる制度として実現されたのが偏差値入試なのであろうが、日本社会においては自由よりも平等に重きがおかれていたがゆえ、機会の平等性という意味では一定の役割を果たした偏差値入試も、人並み外れた才能を持つ人間や、能力に偏りを有する人間の成長を抑圧する側面も一方において持っていたといえる。 このような日本人の横並び志向、単一の価値基準による序列づけを好む傾向、リスク回避志向は、偏差値入試だけでなく大学でも会社でも社会の至るところでみることができるのだけれど、昨今だと偏差値入試批判や働き方、ライフスタイルの多様性を求める声が大きく、状況も少しずつ変化してきているようにみえる。偏差値入試や終身雇用制が賞味期限切れになりつつあり、入試、働き方、生き方が多様化して社会が平等のほうから徐々に自由の方へとシフトしつつあること自体は必然的な流れなのだろうけれど、一方でこれだけ底が抜けてしまってしまった社会のなかで、徐々に徐々に自由のほうへと舵をきってしまって、一体どうやってセイフィティネットを再構築するつもりなのか疑問が残る。これまでは偏差値入試や終身雇用制によって、多数の人は努力すればある程度の生活は約束されたのだろうけれど、これから先は努力したからといって安定的に生活できる保証はどこにもない。そのような最低限の社会保証についての議論もなしに、新しいライフスタイルの可能性や偏差値入試の弊害ばかりについて言及するのは結構罪深いことなのではないかと思う。