三浦雅士 私という現象

現在を過渡的であると感じるのは、どのような人間もつねに、自己の生きる時代に違和を覚えるからである。そしてそのことは、時代のすわりごこちの悪さをではなく、ただ、人間そのものがすわりごこちの悪い存在であるということ、外部に対してつねに違和を覚える存在であるということを、物語るだけなのだ。 pp.35 谷川俊太郎にとって沈黙と無名は重なりあうものであり、沈黙は発語より、そして無名は有名よりはるかに貴重なものである。沈黙の優位はそのまま無名の優位なのだ。そして、当然のようにそれは、私達の時代への根源的な批判を内包している。沈黙、それは、私の私という意識を払拭することである。(…)実際、もしも自我が宇宙大にまで拡散することによって詩的状態が訪れるとすれば、いまここにこうしている私、この私の自我から出発して書くべきことなど何ひとつないはずだ。それはただ、この世界の調和を指し示す静寂を暗示しうるだけである。 pp.139 人間以外のものは見られることを気にしない。ただ人間だけが見られることを意識する。見られることを意識するだけではない、他人の眼で自分を眺め「こんなことはいやだ」と叫ぶ存在である。こんなことはいやだと叫ぶこと、そういう自分に否をとなえること、自分が本来的な自分を実現していないと考え、よりいっそう真実の自己へと接近してゆこうとすること、こうして人は自己のなかに真実と虚構を孕みそれを闘わせて消耗してゆく。自意識とはひとつの劇だ。現実も虚構もそのような人間の生みだしたものにほかならない。 pp.174 ***