市川浩 精神としての身体

身体の疎外をもたらした第三の理由は、身体的欲望が否定され、あるいは抑圧されたということにあります。その一つは宗教的な抑圧ですね。神は純粋な精神であり、善である。ところが人間は、神の似姿であるかぎり善ではあるけれど、身体的存在であり、身体的欲望をもつかぎり、悪への傾向をもつ。そこで禁欲という形で、身体的欲望が、悪として退けられる。 pp.36 身体疎外の第四の動機としては、肉体労働の蔑視ということがあります。エロスを抑圧して労働させるということは、支配のイデオロギーですね。だから労働させるために労働を神聖化しても、裏には実は労働は不快であり、望ましくないという否定的な価値判断があります。そこで労働が聖化されると同時に蔑視されるという一見逆説的なことも起こるわけです。支配のためのイデオロギーとしては労働が聖化され、支配階級の思想としては肉体労働が蔑視される。ギリシアの芸術という場合、われわれは建築や彫刻をすぐ思い浮かべますが、手を汚して働く建築家や彫刻家など美術家の社会的地位は、詩人に比べてはるかに低かったといわれます。 pp.37 掌を上にむけ、手を大きく開いてさしだす場合には、人間は怒っていることができない。人はなんにでも耳を傾けることができるようになり、世界にたいする受容的態度をとるようになる。反対に掌を相手にむけてつき出したり、こぶしをにぎりしめて机を叩く場合には、人は自分の意見を断固として主張し、世界にたいして対立的態度をとりたくなる、というわけだ。 pp.135 私にとって〈私〉であるものは、他者にとって〈かれ〉であり、私にとて〈かれ〉であるものは、他者にとっては〈私〉であるという相互性を認識する。他者を主体化すると同時に自己を客体化し、、主体としての〈私〉は、(1)他者、(2)私によって対象化された私、(3)私にとっての私の対他存在、という三つの次元に反応しつつみずからを形成する。したがって自我は、発生のはじめから、なかば私的であると同時に、なかば他者的であり、終始他者によって浸透されている。他者の存在は、私であるかぎりでの〈私〉の存在にとって構成的であり、たまたま居合わせた偶然的存在ではない。〈私〉は、独我論者が考えるような自己充足的な存在でもなければ、絶対的中心でもなく、関係的・依他的存在である。 pp.161 ***