Why is philosophy important in 21 century?

今年度、ミニレポート等々で文章を書く機会が多かったので少しずつまとめたい。 2016/4/25

*** 自然科学はその始まりにおいて、キリスト教的な一神教的世界観と強い関係を持ち、ニュートンにしてもガリレオにしても、物理的な因果性を問題としつつも、その根底には神が創造したこの宇宙の秩序・摂理を記述したいという信仰にも似た想いがあったように思う。そこで彼らは超自然的、あるいは教会の権威に基づいて森羅万象を説明するのではなく、神と人間、あるいは人間と自然を切り離し、万人に共有可能なかたちで宇宙について記述しようとしたのであるが、その背後には絶対者が存在し、意味、目的、善悪といった非実在的な問題に関しては絶対者の存在を前提とすることによってその価値が担保されていたといえる。18世紀以降には自然科学はさらなる手続き・手法的洗練をみせていくのであるが、一方においてその共通の手続きのうえでは説明し得ない神話的・宗教的要素については偏見や迷信として排斥され、絶対者のように非実在的な因果性を引き受けてくれる主体は社会の中心から姿を消してしまうこととなる。このような啓蒙思想は自然科学の発展には大きく寄与してきたといえようが、これまで神話や宗教が担ってきた非実在的問題を検証不能な問題として棚上げしてしまったことにより、様々な諸問題を副次的に産む結果となった。 たとえば倫理の問題。キリスト教が権威として磐石なる基盤をもっていた時代には、弱者を救済すること、あるいは享楽的な生活を送らず質素倹約することは「善」なる望ましい行為であるという社会的な合意が得られていた。一神教的な明確な教義をもたない日本のような国においても、より生活に根ざした俗化したかたちであるとはいえ「ご先祖様に恥ずかしい行為はできない」といったようなある種の倫理観といったものは確かに存在した。もちろんそのような社会状況にあっても、自己利益のみを追求しようとする人間は少なからずいたであろうが、そのような行為を望ましくないとする社会的な圧力によってある程度にはバランスが回復されていたと思われる。しかしながら現代にあっては、思想信条の有りようは基本的には各人の自由に委ねられており、社会全体として目指すべき方向性に対して社会的合意を得ることが極めて難しい状況にある。明確なる倫理規範がない以上、法律の枠から外れない限りは、誰がどれだけ自己利益を追求し他を搾取しようがそれを倫理的に非難することは難しく、哲学者がいかに崇高な哲学体系を築こうとも、相手から「私には私の考えがある」と言われてしまえばそれまでのことである。不平等の問題にしても、倫理的なアプローチによって合意を得ることは極めて難しく、格差を推し進めることが社会全体の不利益に繋がるという明確で反論の余地のない社会科学的結論が得らたり、あるいは実際に経済的な打撃をうけてこれまでの方針を反省する動きが生じてこない限り、当分のあいだ社会的合意は得られないのではないかと思われる。つまり、これからの時代においては、倫理といった理念的な問題ですらも、それを論じるためにはなんらかの実証性、つまりそれを共有することによって社会秩序の安定性が担保されるなど、実際の公共益に繋がることを示すことが必要となってきているのであり、そうでない純粋に思弁的なものは共感する人だけが共感するだけのものとなってしまって、社会的断絶を埋めることは不可能ではないにしても極めて難しいのではないかと思われる。あらゆる価値が相対化し、全てが等価なまま並列する時代状況にあって、それでもなお社会全体を統合し、これからの行き先を指し示しうる価値はどのようなものとなるのか、それを多くの人間に共有可能なかたちで提示していくことが21世紀の大きな課題となろう。 次に意味や物語の問題。講義にもあったように非物質的な意味での因果関係に対して現代の自然科学はあまり多くのことを答えてはくれない。たとえば、我々が身近な人を亡くした場合、医学的な意味での死因については説明がなされるであろうが、なぜその人が亡くならなければならなかったのかという本人の切実な問いに対しては誰一人として明確なかたちで答えることはできない。かつての世界においてそのような問いに対する明確な答えが存在したのかどうかは分からないが、少なくとも超越者との、あるいは祖霊との関係のなかで現世の出来事の意味を問い直し、物語を構築していく余地というものが残されていた。しかしながら現代では、神も祖霊も死後の世界の存在も公の前提とはされず、現実は単層的になりあらゆる物事の意味づけは全て個人に委ねられることとなる。これは近代化の当然の帰結であるとはいえ、個人にとっては途方もないほどの負担である。 大きな物語がまだ社会的に力を持っていた時代には、現実の生活がいかに悲惨なものであろうとも、少なくとも超越者や彼岸との関係のなかで現実をある程度は相対化させて余裕をもつことができた。しかしながら啓蒙された意識のなかにあっては現実は世界のただ一つのとり得るかたちとして個人の上に重くのしかかってくる。極端な場合には、個人の不遇はすべて個人の行動の帰結としてみなされ、個人はそのすべての責を負わされることとなる。もちろんこのような状況にすべてのひとが耐えられるはずもなく、現代ではその真逆のベクトル、つまり宗教や国、会社やイエといった集団に盲目的に同調することにより自我意識の危機を防ぐような原理主義的な動きすらも散見される。宗教や神話が担ってきた意味や物語の機能を廃して、それをすべて個人に担わせることなど果たして可能なのであろうか。近代的個と原理主義の両極に分解するような時代状況にあって、このような問題はより切実さを増してきているようにみえる。 最後に人間の主観の問題。人間の主観的意識をどう取り扱うかという問題は非常に古典的問題でありながらも、普遍性を志向する近代科学が常に手にあまるものとして持て余してきた問題でもある。絵画にしても音楽にしても文学にしても建築にしてもおおよそすべての芸術活動にはすべて主観の問題が絡み、これらの問題では科学的手続きのみによって客観的な評価を下せるようになることおおよそ考えにくい。現象学はこのような人間の意識の問題を取り扱い、従来の科学的枠組みでは捉えきれなかった領域へと地平を広げていったのであるが、やはりその学問の発生の起源からして、その知見の他者との共有可能性というものが大きな問題となる。現象を追うことによって新しく見えてくる部分は多くとも、それが永遠普遍の真理であると断定することはできず、ここでも再び合意形成の問題が立ちはだかる。ユングフロイトらの深層心理学が一定の説得力を持ちつつも、純粋な意味での科学とはみなされず学問における主流とはならないのも、その手続き的難しさと他者との共有可能性の問題が払拭しきれないからであろう。哲学者が貧乏なのは概念の検証不可能性に起因するという話が講義でもあったが、同様のことは芸術家や深層心理学者にもいえ、提示するものの価値を測る普遍的尺度がないために、それが受け入れられるかどうかは投げてみるまで分からないということになってしまうのである。 もちろん芸術分野では他者との共有可能性を高める手続きが一切ないかというとそのようなことはなく、建築に限っていっても古典主義のようにオーダーによる均整や調和を重んじては普遍を志向する動きは古くからあり、幾何学的形態や機能性を重視するモダニズム建築も同様の志向を持っている。しかしそのような普遍主義の形式性は時に均質で非人間的であると批判され、それに対峙する動きとして有機性、あるいは情緒や感性といった人間の主観を重視するロマン主義の動きが常にでてくるのであるが、このようなロマン主義の動きは、現象学や深層心理学と同様に常に共有可能性の問題にぶつかって勢いを失ってしまうのである。 生命感に満ち満ちた現象学的記述が多くの人を惹きつける。それと同様に、有機性や人間の主観を重視するロマン主義も多くの人を魅了するのであるが、残念なことにそこには共通の手続きというものが存在せず、多くの場合においてその共有可能性は偶然、あるいは作家の天才に委ねられてしまうこととなる。それゆえ世の主流は普遍主義へと傾き、人間の内面や意識といった検証し難い問題に関しては再び棚上げにされかけている。 現象を追いつつも、それをいかに集合知へと繋げていけばいいのであろうか。あるいはまた、内在的な問題をいかに外在的な問題と関係づけていけばいいのであろうか。現状においてはこれらの問題の間にはまだ大きな溝が横たわっているが、これらを橋渡することによってしか二元論は克服できないであろう。内部について語ることが外部について語ることに繋がり、外部について語ることが内部について語ることに繋がるような、俳句にも似た学問が生まれてくれば21世紀は非常に面白い世紀になるように思う。

 

 

ロラン・バルト『表徴の帝国』

「つまり、あの国では、宗教は礼儀にほかならない、あるいはまた、宗教は礼儀にとってかわられているのであると。」105頁

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ロラン・バルト『表徴の帝国』再読。しみじみと面白い。

この国では、「形式」は「実質」に先立つ。それは能や茶道といった芸事から、接客や贈り物といった日常的な対人関係の諸相にいたるまで、あらゆる場面で見いだせる。

「形式」よりも「実質」を重視する文化においては、コミュニケーションにおける社会的なコードの重要性は二の次になる。偽りのない人間の内部こそ尊敬されるべきだとされるのならば、率直でぶっきら棒で飾らない間柄こそが、相手の個人的な価値をいちばんよく尊重することとなる。

親しい間柄において、深々と頭を下げてお辞儀をするような態度は、相手との関係をよそよそしいものとしてしまう。それゆえ人は挨拶を簡略化し、一切のコードとは無関係に相手との一対一の親密な関係を築こうとする。

対して「実質」よりも「形式」を重視する文化においては、礼儀や型といったコードそのものに聖性が帯びる。それは何人たりとも気軽に犯してはならない聖なる規範であって、中身そのものよりもその外的な規範を守ることこそがすべてに先行して重視される。バルトが挙げているのは、中心のない食物「すき焼き」や、中身にまして重視される包み紙、そして平身低頭といった礼儀作法である。これらはすべて、社会的な約束事や取り決めであって、実質や中身の反映として表層に現れてきているものとは必ずしもいえない。中身やコンテンツといったものは二義的なものであり、何にもまして先づ「形式」を守ることこそが神聖視されているのである。

「~道」と名付けられる伝統文化における「型」や、禅仏教における姿勢や呼吸法の重視もその代表的例であろうし、現代社会においてもその思想の基本的な構造は変わらない。サービス業における接客のあり方、肩書きや出身校への拘り、結婚式でのスピーチ等々、形式を重視する卑近な例はいくらでも見つけられるだろうが、難しいのはそれがただの世俗主義ニヒリズム、無内容なスノッブさやエリーティズムと紙一重なところである。

アイデンティティに相当するような日本語が以前は存在しておらず、一人称のあり方もコミュニケーションする相手によって変化することからもわかるように、他者から切り離されたかたちで一義的に決定できる「私」というような自己認識のありかたをこれまで日本人はあまりもとうとはしなかった。(少なくとも日本語のボキャブラリとして頻繁に用いようとはしてこなかった。) 自分の立場というものは常に相手との関係性のなかにおいて措定され、その場その場のコミュニケーションの約束事に基づいて行動せんとする。

そのような態度はおそらく両価的で、皆がある役割を演じることによってその場その場での秩序が維持されたり、役割と実質の狭間で葛藤するなかで成長する契機となったりもするのであろうが、ともするとただの無意味・無内容な形式主義ニヒリズム、空気や権威にただただ符合するだけの態度へとつながりやすい。形式だけを重視する態度、実質だけを重視する態度、おそらくそのどちらにも問題があって、実際には「実質」と「形式」はもっと相補的な関係にあり、洋の東西で前者を優先するか、後者を優先するかの違いがあるにすぎないように思われる。

日本における「形式」を考えていて面白いのは、対人関係における社会的コードはいまだかなり厳密で保守的であるのに、都市や建築を考えるうえでの約束事や規範といったものは、法的な規制以外ほとんど無効化しつつあるという事実である。かつては住宅はその住まい手の社会的階級と深く結びついており、武家は屋敷型の住まいに、商人は町屋型の住まいにといった具合に住宅の表層はその住まい手の社会階層を示すコードでもあった。しかし現代の都市では、個人が住宅を建てる際にどのようなものを建てるべきかに関する社会的な約束事がなくなってきており、法的・経済的に可能であればいかなる建物が建てられたとしてもそれを非難することは難しくなっている。現代日本社会において社会階層は現に存在するし、対人関係における階層間のコミュニケーションのコードはまだ残っているにも関わらず、建築における社会階層間のコミュニケーションのコードはほとんど崩壊しつつあるという点が非常に不思議であり、面白くもある。日本では、なぜか建築に限っては礼儀も形式も何もあったものではないのであり、むき出しの個人の欲望がグロテスクに表現され、階層間の約束事や町並みの調和といったかつての「形式」は二の次とされる。(最近の新国立競技場の一件はそのような欲望の発露を許容し続けてきた東京においてもはや守るべき対象がなんなのか分からなくなってきているにも関わらず、景観を守ろうという動きが生じてきた点で二重に不思議でもある。)

このことは何を意味するのであろうか。もしかするとそれは戦後の日本人の生ぬるい階層意識のなせる技かもしれないし、もしくは新自由主義的な風潮を反映した個人の欲望の発露かもしれない。

いずれにせよ、形式や約束事を重んじてきたはずの日本人が、その形式を取っ払って「ありのまま」の欲望 (≒実質) を表現することが許されるといかなる混乱が生じるのか、現代都市は非常に先駆的なかたちで表現してくれているように思われる。

 

熊代 亨『ロスジェネ心理学―生きづらいこの時代をひも解く』

  ・全能感を維持するために「なにもしない」人達 ここ最近、「価値のあるボク」「価値のあるアタシ」といった肥大した自己イメージを、いつまでたっても抱えている男女がそこらじゅうに溢れています。つまり、全能感を捨てきれない大人達が増えているわけですが、彼らが全能感を維持するメカニズムについては、あまり取り沙汰されていないようです。 1.自分が得意な分野で、全能感を何度も確認する 自分の優秀さや自分のバリューを確認しやすい場所で、それを反復的に確かめる、という方法です。(中略)ポイントとなるのは、「全能感が傷つく可能性の高いところには手を出さない」。 自分の値打ちを確かめ損ねてしまったら「全能ではない自分自身」「たいして価値のないかもしれない自分自身」に気付いてしまうかもしれませんから、そういう事態は避けなければなりません。実際、安定確実に優越性が示せるフィールド、反復的に自己評価を確認しやすいフィールドが、無意識のうちに選ばれるようです。 2.全能感が折られる可能性をぜんぶ回避する 「何もしない」「何も本気でやらない」人ほど、全能感は温存される、という話です。 本気で勉強しない、本気で恋愛しない、何にも真面目に打ち込まない……こういう処世術は今日日珍しくありませんが、現実世界で本当に全能・有能になるには向いていません。しかし気分として全能感を保持するには向いています。 なぜなら、全能感は「挑戦して、自分がオールマイティではないという事実に直面する」「それほどには価値のあるボクではないという事実を突きつけられる」まではいつまでも維持されやすいからです。 「http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20100119/p1」より ***

河合隼雄『河合隼雄著作集9 多層化するライフサイクル』

  

アヌゼルムスは、なぜこんなに不器用なのだろう。彼は無能力ではない。彼は成績は優秀だし、将来は枢密秘書官か、あるいは宮中顧問官にさえなれるのではないかと期待されているほどだ。(...)このように「夢」を実現する能力をもっていながら、それを潰してしまう不器用さがアンゼルムスを苦しめるのは、彼の知らないところで、もっと深い次元の「夢」が彼を捉えているからである。不器用さは深い夢への通路となる。

青年は夢を持つべきだ、と言ったりするがほんとうのところは、夢の方が青年を捉えているというべきだろう。(...)青年が夢破れて八方ふさがりと思ったり、己の不器用さに腹が立って仕方がないと感じたりするとき、自分が捉えようとしている「夢」は何か、と考えてみると発見をすることがあるだろう。そこからまったく新しい道が拓けてくる。と言っても、それはそれ相応の苦しみを伴うものであるが。p.71

 母性はロマン主義の敵のようである。幼い時はそれはリーゼばあやとして育ててくれるのだが、青年となって詩の世界へ飛翔しようとするときには魔女ラウエリンとなって妨害する。したがって、それは退治されなければならないのだ。このことは、ロマン主義の精神性の優位をも示している。身体性を拒否しようとする力は非常に強力である。(...)ロマン主義は、人間の理性よりも感情の世界、外的現実よりも夢などを重視する考えである。人間の存在の深みに降りてゆこうとするものが、母なるものを殺し、身体性を否定することなどできるのだろうか。ここにロマン主義のもつ悲劇性があり、ロマン派の芸術家に自殺などの悲劇的人生が多いことと無縁ではないように思われる。p.77

現実と夢とを明確に区別して考えている間は、どうしても夢の方が分が悪い。夢は現実によって無視されるか、現実の裏打ちとして奉仕させられるか。ところが、そもそも「現実」ということが、それほど明確でなく、そこにはさまざまの現実がある、と考えはじめると、夢の方もある種の「現実」として見るべきだ、ということになる。p.80

かつての青春は、現実と夢とを明確にわけ、その夢をいかに現実化してゆくか、というところに意義を見出そうとした。しかし、この方法はどうもあまりうまくゆかないことがわかってきた。現代の青春は、夢と現実の区別があいまいになる。その両方をリアリティと受け止めて、そのなかに生きることが大切となる。p.89

日本では多くの遊びが「道」という観念として高められ、宗教的な色彩をもってくる。簡単に言ってしまえば、欧米においては、スポーツにしろ芸能にしろ、そのような技術を身につけた強い自我を形成することに主眼が置かれるので、どのようにして鍛えると強い自我ができるかと、その可能性をできる限り伸ばしてゆこうとする。これに反して、日本の「道」は、むしろそのような自我を棄て、自我を離れたところで体験する意識によって把握されたものを尊ぶことになる。後者の場合は、したがって宗教的な修行に通じてゆくが、スポーツとか技術の修得として見た場合、西洋流の方が長所をもっているというべきであろう。(...)日本人の精神力は苦しみに耐えるときには効果的であるが、自分の力をのびのび発揮するときには、あまり役に立たない。p.121

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河合俊雄、内田由紀子編『「ひきこもり」考』

  北山忍「自己矛盾のメンタリティー」 日本の文化は、古来農耕を基盤にして発展してきたが、これに儒教・仏教といった基本的に人間関係を重んじる思想が加わって成り立ってきている。これらの日常の習慣はとても関係思考的で、思わず知らず、いわば自動的にまわりに注意がいってしまう暗黙の心理特性はこれに対応しているのである。他方、関係性を否定し、自分の利益を利己的に追求しようとする明示的な自己認識のほうは、メディアをはじめとするいろいろな情報源から得られた知識に基づいている。日本では明治時代より、西洋化するというのは、個人主義を取り入れることと表裏の関係だったわけだが、特に戦後、個人主義とは社会や人間関係を否定することだという考えが非常に強くなった。関係性とは「昔の」「古い」もので、これらの関係性から解放されることが近代化の要件であるといった議論が特にインテリ層を中心になされてきた。西洋の個人主義とは、個人の権利を根底において社会関係を作り上げる考えだが、すでに世間に埋め込まれ、関係性を前提として自己形成がなされている日本人にとって、「コジンシュギ」とはすでにある関係の「呪縛」から解放されることだったのだ。p.39 一つ思考実験をしてみよう。ここに関係性があって初めてやる気になり、関係性があって初めて目が輝き、そして関係性があって初めてどこに注意を向けたらよいか了解する人間がいたとしよう。ところがこの人は同時に、関係性のゆえに自分は本当の自分になれないでいると強く信じているとしよう。するとどうなるだろうか。まず試験で失敗するなど何か悪いことが起きると、これは何らかの関係性、たとえば、友達関係が悪いからだというように考えるだろう。すると、何とかして関係性を切り捨てようとするだろう。しかし、関係性を切り捨ててしまうと、やる気も失せ、注意も散漫になり、目から輝きも消えてしまう。そこでますます悪いことが続けて起きる結果になる。実際の原因は、自分の暗黙のメンタリティーを了解せずに関係を否定してしまっていることにあるのだ。だから、関係性を回復したらよい。しかし、すべての諸悪は関係性にあると信じているから、当人はそうとは考えず、ますます関係性を切ってしまう。これは悪循環である。暗黙のうちに関係志向の人が明示的信念として関係性を切り捨てると、きわめて深刻な結果が生じると予測できる。p.41 日本人において、自動的な自己制御は、関係志向的であり、関係性があると自己も安定してくるし、注意が向く対象があるし、やる気も起きるし、幸せにもなることは前掲のデータからも明らかである。このようなプロセスは、自動的で、多くの場合無意識である。それというのも、長年の歳月を経て積み重ねられた文化の習慣が日常の経験を通じて内在化してきたからである。同時に意図的な自己制御のシステムでは、独立的または少なくとも非関係思考的といった自己意識をもつことになる。関係性を否定して、それをもって自立する、あるいは個人主義を遂行しようとする。この二つのシステムの乖離が、現代日本文化の揺らぎと結びついているのだと考えることができる。p.42 ・ビナイ・ノラサクンキット『「ニート・ひきこもり」についての社会心理学的考察』 ニート・ひきこみりになるリスクが高い学生は失敗のフィードバックを与えると課題を継続する動機づけは低くなり、逆に成功のフィードバックを与えると、動機づけが強くなる特徴をもっていることが示された。(…) この傾向から、社会に適応している日本人は、特に失敗に遭遇した際に、自己の改善を目指して努力しようとする動機付けをもっていると考えられる。マーカスと北山の理論によれば、北米など、個人的目標を優先する社会は、自己が相対的に他者や環境から区別される「相互独立的自己観」を発展させる傾向があるという。相互独立的自己観では、自己を他人と区別し、自己のポジティブな側面を強調する傾向(自己高揚動機)が顕著であるのに対し、相互強調的自己観では、人々は社会的調和を維持しようとし、自己を状況や基準そして関係に合わせようと努める。したがって、個人的行動と社会的に期待される行動の間のギャップを埋めるために、自分自身の欠点に注意を払い、その欠点を努力によって直そうとする。これは自己向上動機と呼ばれるものである。p.73 *** なるほどー。超越者との関係が背景にあった西欧社会において、「近代化」や「個人主義」というものが超越者との関係を断ち切って、個人の権利を根底として社会関係を再構築していくということ試みであったのにたいして、もともとそのような縦軸がなく、横軸の関係性が重視されていた日本社会においては、「キンダイカ」や「コジンシュギ」というものは神との関係ではなく横軸の関係性をぶったぎって「解放」する動きだったのか。 一口に「近代化」といっても背景とする文化や宗教性が違うのだから、日本と西欧における「近代化」は違った意味合いを帯びるのだろう。村上春樹の小説の登場人物に代表されるポストモダン的状況、言い換えたら超越者との関係も、共同体との関係も、土地との関係も切り離された根無し草の状況というのは、だからこそ日本において特に深刻になったのかもしれない。 では、西洋における個人主義には「人権」というものを根底において社会を再構築していこうとする足場があるのに対して、日本における「コジンシュギ」は何を足場において社会を再構築しようとしたのだろうか。 それはおそらく「人権」でも「超越者」でもなく他ならぬ「個人主義」を足場において「コジンシュギ」を実現しようとしたのだろうと思う。「コジンシュギ」の実現においては、共同体というものは解体すべき悪しき横の「呪縛」とされたのだけれど、その解体の過程において土台とされたのが、西欧文化の「個人主義」という別の横軸であり、そのどちらも相対的であるという点で本質的には変わらないのではないか。 「個人主義」を真似て日本型「個人主義」を実現しようとしてみてはいいけれど、待っていたのは暴力的なまでの他者との切断であった。他者、つまり超越者や土地や自然や共同体や死者との関係が切断されて、誰もが都市の匿名的な漂流者になり、長き漂流の末、行き着いたのがポストモダン的「コジンシュギ」だったのだろう。 ポストモダン的状況においてコミットすべき価値などは存在しない。全てが相対的で、相対的だからこそ多数の重視する価値というものが暴力的なまでに重要性を帯びてくる。正しいことは「一番多くの人が現在正しいと信じていること」(p.24)に他ならず、常に状況依存的である。 そのような状況下では多くの人が二ヒリスティックに保身と自己利益の追求に明け暮れるのも必然だろう。価値はすべて相対的で、どのような価値にもコミットできないのだから、「理想」など持てるはずもない。重要なことは「現状」であり、未来は「現状」から判断して、「現状」の部分修正を繰り返した結果、漂着するであろう偶然のものでしかない。 そして新自由主義も「コジンシュギ」の一つの極端な形態だと思われる。絶対的な価値というものが存在しない以上、個人が自己利益を際限なく追求し続けることを誰も咎められないし、その利益を社会に還元することを求めることも難しい。個人の成功は完全に個人の才能と努力に依るものであり、同様に個人の失敗も個人の能力と努力の不足に依るものだと考えられる。 さらに問題なことに、日本型「個人主義」は著者が「コジンシュギ」とカタカナ書きするように個人主義にはなりきれていない。個人主義を真似て横の関係性をぶった切ってみたはいいものの、著者が言うように根っこの部分は関係志向なのでその矛盾に引き裂かれることになる。自立を志して「悪しき」関係を断ち切ってみても、結局は関係をぶった切った相手からどう見られているのか気になって仕方がない。 結局のところ、問題は「どこを定点とするのか」ということであり、西欧社会においては「超越者」を定点とする伝統があり、日本社会においては「共同体」を定点とする伝統があったということなのだろう。近代化はその縦軸、横軸どちらともぶった切って「個」の確立を目指したのだけれど、その限界はすでに露呈してしまっている。勇ましく関係を切ってはみたものの、そのあまりの心細さと虚無感に多くの人が耐えきれなくなっている。結局は縦軸や横軸との関係を再び回復していくなかでしか、本当の意味での自立というものは難しいのかなと感じる。

鷲田清一『「待つ」ということ』

  「窯変」という言葉がある。陶工はこねた土の上に釉薬を塗るが、窯にそれを入れたあとは、焼き上がるまで待つ。どんな色が滲みでてくるか、ときにどんな歪みがその形に現れるか、それは作家の意図の外にある。気に入った形が現れるまで、陶工は土をこね、焼くということをひたすらくりかえす。割るもの、棄てるもののほうが多いかもしれない。ここで、何かを創るという意思はかえって邪魔である。作為に囚われているあいだは、器はいつまでも形を現さない。そのため陶工は、作為を消すために土をこねるかのように、土をこねる。何度も何度も飽くことなく土をこね、そして焼く。「一人の作者に期待し得ぬような屈折」(和辻哲郎)が現れるまで、偶然に身をゆだね、待つ。まるでおのれの作為を壊すために同じ単純な動作を反復しているかのようである。pp.119-120 だれから呼びかけられているのか見えないまま、それでも霧のなかで「おまえがそこにいることには意味がある」と呼びかけられているという思いに賭けようとするとき、<待つ>ひとは「信仰」と壁一枚隔てたところまで運ばれている。「きっと神さんが見たはる……」。わたしを揺らめかせるもの、たとえばメロディを奏でそうな装置をしまうこと、物語にふれないこと、香りを遠ざけること。そしてたとえば写経のように、書くというただそのことにだけじぶんの存在を約めること。これは、アランが書いていた「礼拝の原則」のすぐ傍らにある、肉体が、ひいては心が「散る」のを封じ込める仕方である。pp.126-127 ***