ヨーラン・シルツ『白い机ー円熟期』

  彼にとってAかBかの二者択一はありえず、AもBもという両立あるのみだった。AとBを結び合わせよう、それらのあいだに調和のとれたバランスを見いだそうと、いつも努めていた。 p.69 彼個人の印象は、自然でナイーブで、寛大で、心の温かい男という感じだった。彼が神話的人物として振る舞うことは決してなかった。謙虚な人とは言えないが、高慢でもなく、己の偉大さに気づいていないように見え、自己評価するのを避けている。仲間の作品に関しても、評価もしなければ軽蔑することもない。自分と異なる方向を目指す建築に対する態度が、徹底して無関心なのには戸惑ってしまう。 p.147 ラウタタロ 昔からの夢だったイタリアふうの屋根つき「ギャラリー」p.147 新古典主義に傾倒していた若い頃の作品である近くのムーラメ教会と同じくらい「イタリアふう」なのである。外国から借用したモチーフでも、十分な説得力を持ってこの地に移植すれば、純フィンランド的なものに変わる、という以前からの信念に彼は断固忠実だった。 p.154 詰まるところ、アアルトはすべての政治的、イデオロギー的な強制に反発し、マルクス主義の独断的な姿勢に疑念を抱いていたが、自ら進んで左翼思想を信奉する人々には敬意を払ったのだと結論づける以外にない。 p.181 アアルトはほとんど信じられないほど、観光地に無関心だった。晩年には劇場や美術展に足を運ぶのも嫌い、新しい本さえ読もうとしなかった。何かの文化的イベントに誘われると、「私が応じると思うかね?」と皮肉っぽく言った。そして昔の愛読書や、以前の仕事に直接結びつく事柄から離れようとしなかった。彼はまるで成長に必要な栄養だけを吸収する植物のようだった。見境のない「文化の使い捨て」を軽蔑し、一時的な流行には目もくれなかった。p.208 「私はいつも心の中でイタリアへ旅をする。それは記憶の中に生き続けている過去の旅かもしれない。現在、途上にある旅かもしれない。ちょうど計画中の旅かもしれない。いずれにせよ、そんな旅が私の建築作品には欠かせない。」1954年 カザベッラ誌に掲載  p.211 彼は広大な自然と、文明化した人間と、実用的な技術のあいだに、しっかりとしたバランスを見出そうとしていたのだから。 p.295 ***