隈研吾『新・建築入門ー思想と歴史』

  イスラム建築が残した最も印象的な多柱空間は、八世紀に建設されたコルドバの大モスクである。濃淡二色の石をゼブラ上に交互に積み上げて作られた背の低い柱。その石柱が無数に増殖することで出現した均質な柱の森は、外部を必要としない構築というものも存在しえるという、ひとつの可能性を暗示している。 もちろんこの均質な多柱空間の背後にあるのはイスラム教である。イスラム教の本質にひそむ非構築性が、この多柱空間を生み出したのである。一方キリスト教は構築的な精神に裏打ちされた宗教である。構築的とはプラトン的と言い換えてもいい。プラトンは乱雑な現実に対してイデアという理想的な世界を対比させた。乱雑な現実という外部に対比させて、彼はイデアという理想的世界を構築したのである。その対比こそが構築の本質であり、その意味においてプラトンこそが古代世界における構築的精神の完成者と呼ぶにふさわしい。 キリスト教もまた不完全な現世に対し、完全な世界としての神の国を対比させる。乱雑な現世という外部と対比させる形で、神の国という完全な世界を構築するのである。ここに見られる構築的精神、すなわち現実と理想とを退避させる精神こそがキリスト教の本質であり、キリスト教ギリシャを、そしてプラトンを通じてこの構築性を獲得した。ユダヤ教という東方的宗教は構築性の獲得を通じて、キリスト教という西洋的な宗教へと転換したのである。そして、創造主としての神という概念もまた、構築を重視する精神の産物である。キリスト教の神はまず第一に創造主であり、これほど強く創造主という概念を神という概念と結びつける宗教は他にない。構築を出発点としてすべてを定義しようとするがゆえに、神は構築者、すなわち創造主として定義されるのである。キリスト教的な神もまた、構築的な精神の産物であった。 pp.48-49 構築はひとつのまとまりを作ろうとする行為であるが、逆にまとまりすぎてしまってもまた、いけないのである。安定しすぎてはいけないのである。構築とは不安定なものと、安定したものの中間に存在する。そして混乱したものと秩序あるものの中間に存在する。むしろ構築とは時間的な概念であるといった方がいいかもしれない。極端な言い方をすれば、不安定なものから安定したものが生成される、その一瞬にだけ構築というものは存在する。混乱したものの中に秩序がうち立てられる、その一瞬をだけ構築と呼ぶことが許されるのである。 pp.65-66 ***