内田樹、釈徹宗『はじめたばかりの浄土真宗』

  謙虚なたしなみの宗教性は、常態時において最も多くの人々が共有できることは間違いないと思います。 しかし、一本の道筋をたどり、態度を明確にし、エートスを形成して、はじめて開ける宗教性があることも間違いないと思います。例えば親鸞キェルケゴールは、「野生の宗教性」(@内田)ではいかんともしがたい闇や不安に直面し、苦悩しました。こちらは、まあ、愚者の宗教性、あるいは弱者の宗教性といえるかもしれません。 「あれもこれも」という賢者のスタイルではなく、「あれかこれか」を選び取るというスタイルです。 そして宗教性を成熟された人には、賢者と愚者、両側面を確認することができます。 ただひとつの道筋を選ぶ愚鈍さと、それを唯一絶対と盲信して他者におしつけることのないバランス感覚。「私が生きるにはこの道しかない」という宗教的実存と、「心理はさまざまな顔を持つ」という多様性。 賢者であり愚者である、という相関関係は、「自分を超えるルールがある」という安心感と、「この世に投げ込まれた」という不安の二律背反でもあります。 内田先生が語られる宗教性には、「ルールを推論する思考の趨向性」を発揮する賢者でありながら、「ルールを知らない」愚者という両側面が確認できます。 私は、かくのごとき背反する事態の緊張関係こそが、宗教的実存であると思っています。そしてそのことを中世の念仏者・親鸞という人物から学びました。親鸞の生きざまは「世俗に立脚しながら、なお世俗を相対化して生きる」ところに特徴があります。 宗教が他の体系と違う点は、世俗を相対化する領域があるところです。すなわち、世俗と出世俗の拮抗です。 「ワンアンドオンリーでザッツオーライ」は、やはり独善への躓きをはらんでいます。逆に「なんでもやっちゃう」のも、既述のような相反する緊張関係が平板化してしまい、宗教的パトスが旺盛な人や実存的不安を抱えた人の「魂の叫び」に応えるものではなさそうです。 pp.7-9