吉本隆明「シモーヌ・ヴェイユの神」


 「シモーヌ・ヴェイユの神」  吉本隆明 (吉本隆明の183講演)  http://www.1101.com/yoshimoto_voice/ どんな政府、どんな支配体制をつくったとしても要するに頭になるもの、あるいは頭脳を働かせて指標するもの、それから実際に肉体を行使して肉体労働する人との違い、区別というのは解消しないんじゃないか、というのが、ヴェイユの考え方がどんどんどんどん集約していくのはその点なんです。20:20-21:30 頭脳労働と肉体労働との区別が解消しない限りには、どんな政府を作っても労働者の解放ということは実現しないんじゃないかというのがヴェイユの社会思想、革命思想の集約点になります。22:20 現代の重工業とその基礎になっている現代技術というものとそれから現代文明社会との関連性について考えるために工場で働きたいからそれを許可してほしいということを文部省にそういうテーマを申請しまして工場に入って行って、三つばかし工場を転々とするわけですけど、一介の女子の工員さんとして入っていくわけです。29:35 ヴェイユが工場体験で得たことのなかで何が重要だったかというと、そこであらためて技術的に頭で持って指導する人と、肉体労働で休みなく製品を作る人が愕然と分かれている、これはどうしようもないのではないかとヴェイユは考えていくわけです。もうひとつヴェイユの工場体験では、人間はぎゅうぎゅうに使われっぱなしだと反発心を持つものだと思っていたけど、そうじゃないのだということがわかった。自分のなかに考えもしなかった奴隷の従順さというのが芽生えてくるのがわかったということをいっているわけです。それは非常に重要な体験だと僕には思います。32:59 肉体労働している人が事務労働したくなったら、あるいは事務労働している人が肉体労働したくなったら自由に働いてもいいというシステムが作れたらある程度は解消するのではないかということを僕は考えます。つまりここでも開くということなわけです。35:56 神の存在と人間の存在というのは際どく矛盾、背反するものなんだというふうに神を設定しなければだめだ、と。神から苦悩が取り除かれるとか、慰められるとか、これを信仰すれば暮らしやすくなるというような考え方で信仰される神というのは全然うそだというふうにヴェイユは言っています。そんなふうに信仰すべき神は全然だめなんだ、と。人間というのが神に接近する唯一の方法は慰めもない不幸とか絶対的な絶望みたいなものを通してしか人間は神に近づくことはできないんだ、と。それ以外の近づき方をしようとしたり、したつもりになってるのは全部嘘だ、全部間違いだというふうにヴェイユの神学はそういうふうになっていきます。 ヴェイユにとって重要なことは不幸とか死とか苦痛とかそういうようなことが重要な意味を持つようになってきます。それを通してしか神に到達することはできない。(…)これはプロテスタント系の神の考え方に対するおそらくアンテチテーゼを言おうとしているんだと思います。ヴェイユの考え方は徹底しています。不幸とか死とか苦痛とかっていうのをもう少し倫理の問題として悪だ、悪の報いを受けているんだというようにいうと、悪を介してしか神には近づけないんだっていうふうな言い方をしています。(…)人間が悪な場合には人間の重力の圏外にいる神、あるいは神の恩寵というものは善なるものに決まっているから、その善なるものに接近するには人間は悪である以外にない。あるいは悪の報いがあるところの不幸とか死とか苦痛というもの以外に近づく術がない。そういうところに神っていうのは存在するのだ、というところにヴェイユの独特の考え方だと思いますし、ものすごく徹底した考え方だということができます。 ここらへんまでいきますとヴェイユの考え方は著しく日本の中世の浄土系の宗教家の考え方に非常によく似てきます。たとえば親鸞が、「善人尚もて往生をとぐいわんや悪人をや」っていうふうにいうでしょう。つまりつまり善人が浄土へ行けるというのならば悪人はなおさら行けるんだという言い方を親鸞はしていますけれどそれと著しく近づいている。(…)ヴェイユはよく、あらゆる現世に対する執着というものを全て断ち切ってしまわなければ神の恩寵には到達しないという考え方をヴェイユは述べています。現世に対する執着を全部とっぱらってしまってとにかく自らなぐさめようもない不幸というか苦痛というところに自らをおいて初めて筆舌に尽くしがたい恩寵の慰めが向こうからやってくるということがありうるといっています。この考え方はやっぱり一遍みたいな人の考えに著しく近いというふうにいうことができます。つまりヴェイユの考え、神の考え方は僕らにある意味でわかりやすい考えに近づいていますし、またヴェイユは徹底していて、あらゆるキリスト教的な教えに対して、全部アンチテーゼだ、全部違う、苦痛と不幸と死しか人間は神に到達する道はないというふうな言い方になっています。そういうところから人間の行動の倫理というものがでてくるんですけど、ヴェイユが強調してやまないのは、「自分がそうと思わないことは絶対にするな」ということ、それから「そうと思える範囲内でしか行動をするべきではない、それを超えて行動すると必ず間違えるから、人間は必然的にそうだと思える範囲内に自分の行為ていうものを止めておくべきだ。それを止めないで何か違うそれ以上のことをしようと思ったり、しようとしたりしたら必ず間違える、必ず違った神に到達してしまう」という言い方をしています。つまり必然の行為だけが本当の倫理で必然性のない行為は全部違う、人間の行為の倫理的基準にならないというのが、ヴェイユの倫理に対する一番の根本にある考え方だと思います。1:00:20-1:07:20 ヴェイユというのは労働という概念を捨てないんです。それは人間の霊的な生活の基礎になるのが肉体労働なんだっていう考え方を捨てないんですけど、ヴェイユの考え方というのは人間が宇宙に触れる唯一の触れ方は労働を介してしかありえないんだ、労働を介してしかありえないというのは対象に対する働きかけ、宇宙に対する触り方をやると宇宙のほうはそこから逆に人間のほうに自分の本性を証ししてくれるっていう考え方です。いってみればマルクスの対象化行為を労働って考える、それを拡張してっていいましょうか、観念的にしてっていってもいいんですけど、人間が宇宙に触れられる、あるいは神の恩寵に触れられる唯一の方法はなにかっていったら対象に触れようと、対象に対する働きかけだ、働きかけた部分から宇宙はその本性を自分に証ししてくれる、人間に証ししてくれる、その本性のなかに神の恩寵というのははいっているんだ、っていうようなのがヴェイユの神学の非常に晩年に到達している大きな考え方です。    (…)ヴェイユの神学というのは観念的な宗教だといえばそうなんですけど、依然として初期のマルクスの考え方は生きていて、一種のヴェイユなりの拡張の仕方をしています。マルクスは宇宙という考え方や語彙は使わないんですけど、(…)対象的行為をされた対象物から価値ある価値物に転化するというのがマルクスの考え方を僕なりに解釈するとそういうことになりますけど、それをヴェイユは宇宙という言葉を使って宇宙に対する働きかけをすると、働きかけた宇宙が自分を証ししてくれる、それだから労働ということは要するに人間の精神生活、あるいは霊的な生活の基礎になるものだというのがヴェイユの大きな考え方です。1:13:10-1:15:28 ヴェイユが決して労働ということをボランティアというふうに一度も考えたことがないんです。いつも賃労働の延長線です。(…)つまり、宇宙の切片でもいいんですけど、断片に触れた箇所から宇宙はその本性を人間に証ししてくれる。その宇宙の本性とは何か。それは神の恩寵なんだという考えかたをしています。それはとても興味深い考え方だと思います。これは宗教的に考えれば異端のカトリックの考えたなんでしょうけど、そうじゃなくてもっと一般的に考えますと、(…)もしかしたらヴェイユの考え方は宗教をもう一度越えていくっていうひとつのキーポイントになるかもしれない考え方だと思います。1:15:50-1:16:30 マルクスの考え方では人間の働きかけの対象になったものから全部価値物に転化していくっていう考え方というのは抜け目がないわけです。(…)なんか人間というのは価値物に取り囲まれていないと、もっと極端にいうと商品に取り囲まれていないとなんないみたいな感じで、少しは遊んでるところがないのかっていうのがあって、僕がマルクスの考え方を修正したいのはそういうところです。1:16:50-1:18:10 ヴェイユの考え方で今も重要だし、これからも重要だなって思われることがあります。(…)それはヴェイユの科学とか芸術とか文化とか文学とかそういうものに対する考え方なんですけど、ヴェイユの言い方をしますとそれはつまり全部人間の人格の表現の様々な形式であると、そのなかの非常な優れた人が何千年も名前と業績が伝わっているような人類の歴史が始まってからずっと保存されているような名前を伝えられて高貴な業績だと言われていると。しかし、本当はそうじゃないんだということを言っています。そういう輝かしい天才たちの何千年も名前を残すような仕事、業績っていう領域ののもっと向こう側に本質的な領域があるという言い方をしています。その本質的な領域こそが本当は第一級の領域なんだという言い方をしています。(…)その存在する領域っていうのは、偶然に名前が記録されることもあるかもしれないけれど、絶対において無名の領域だという言い方をしています。その無名の領域、ないしは匿名の領域なんだと。だけども誰がそこにいったかは全然わからない。だけど、第一級のものと人々が考えている、あるいは歴史が考えている、それよりももっと向こう側のところに深い淵を隔てて一つの領域があって、そここそが第一級の領域なんだと。それがヴェイユの神学といいますか神についての考え方が最後にたどり着いた点、これはロンドンで死ぬわけですけど、ロンドンにいた時に行ったヴェイユの言葉なんです。(…)そこまで考えれば、その領域っていうのはたぶんどんな場所からも、つまりキリスト教の信仰からも、仏教の信仰からも、それから信仰じゃなくてイデオロギーや思想というそういう側からもやっぱりそこの点、なにかわからないけれどそこの点を考えれば見えるんじゃないか。党派の領域ではない、あるいは宗教の派閥の領域ではないとか、違う宗教の領域であるとかいうのではなくて、どっからも見える一つの領域というのは考えられるんじゃないのかっていうのは言えそうな気がします。つまりヴェイユの上についての考え方はカトリック的ではありますけども、これがそれを超えてなおヴェイユはある一つの普遍的な領域、それが一番第一級の領域、だれが到達しているのか誰もわからない匿名の領域、あるいは無名性の領域、そここそが本当の第一級の場所なんだという言い方で、そのさしるものというものはどっからでも見える、そういう見え方ができるんじゃないかって、つまり誰がやってもそこへ考え方を集中していくという、一つの普遍理念、あるいは普遍宗教でもいいですけど、そういう領域っていうのが人間は考えることができるんじゃないのかっていう希望を抱かせます。1:23:00-1:27:30
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