中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』

  ・「古代人」の心を知る 折口信夫は人間の思考能力を、「別化性能」と「類化性能」のふたつに分けて考えている。ものごとの違いを見抜く能力が「別化性能」であり、一見するとまるで違っているようにみえるもののあいだに類似性や共通性を発見するのが「類化性能」であり、折口自身は自分は「類化性能がとても発達していると語っていた。(中略) 「類化性能」とは、いまの言い方をすれば「アナロジー」のことであり、詩のことばなどが活用する「比喩」の能力が、それにあたる。ひとつのものごとを別のものと重ね合わすことによって、意味を発生させるやりかたである。 p.18 ・「まれびと」の発見 宗教体験の根底には、異質な世界との強烈な出会いがなければならない、というのが、折口信夫の実感であった。その出会いがなければ、宗教も文学も発生しえない。「古代人」の心の本質が「類化性能」にあるとすると、とうぜんそういう結論にいたるのである。折口信夫は、文学でも宗教でも、あらゆる領域で発生のおこる場所では、じっさいにそういうことがおこっている、と考えた。「あの世」と「この世」をつなぐ精霊が、その働きをする。現実世界とはまるで異質なつくりをした他界から、「この世」への来訪者がやってくる。そのとてつもない遠方からの来訪者を迎えるための形式を、「古代人」は「まれびと」の思想として表現しようとした。p.40 「まれびと」のふたつめの意味は、「あの世」からの来訪者ということに関わっている。人間の知覚も想像も及ばない、徹底的に異質な領域が「ある」ことを、「古代人」は知っていた。つまり、世界は生きている人間のつくっている「この世」だけでできているのではなく、すでに死者となった者やこれから生まれてくる生命の住処である「あの世」または「他界」もまた、世界を構成する重要な半分であることを、「古代人」たちは信じて疑わなかったのである。p.45 彼は少年時代から独特の「貴種流離」の感覚が強かったという。いまの世ではすっかり落ちぶれてしまっているが、じつはその昔は貴い系譜につながっている人々が、地方を流浪していくという物語などに語られた、奇妙な感覚である。後年折口信夫はそこで言われている「貴い」ということばを、古代の精霊と深い交わりをもっていた「古代人」の末裔たちの生き方考え方、という意味で理解しようとした。そして、自分自身もまた、いまの世ではすっかり落ちぶれた「古代人」の一人として、精霊との交わりを保ちながら、どことなく異邦人のような感受性をもって、近代の日本で生きてやろうと考えていたのである。(中略) じっさい、芸人や職人たち自身が、自分たちのことを「貴種流離」的な存在だと見なそうとしていた。(中略)こういう芸人や職人の実存感覚に、折口信夫はうち震えるような共感を抱いていた。(中略)「わたし自身が芸能の徒の一人なのである。いまの社会では落ちぶれ果てた存在のわたしだからこそ、芸能のことが内側からすみずみまでわかる。わたしはいまの世で成功する者とはなりえない人間だ。なぜならわたしは精霊とともに生きる一人の古代人であるのだから」。折口信夫の芸能研究には、そんな強烈な意思がみなぎっているように感じられる。p.58 ・未来で待つ人 別の領域のもの同士をつなぎ合わせる知的能力は、心の内部を自在に動いていける流動的知性を、心の表面にあらわしてくる。霊の動きは、この流動的知性の動きとじつによく似ているのである。おそらく、折口信夫は死霊が行動をおこなう特別な時空のつくりを、半醒半睡の状態で体験することのできる能力を持っていたのであろう。「古代人」の間では、この才能はシャーマンのものとされていた。pp.81-82 ***