小熊英二『社会をかえるには』

 

・祝祭と音楽の世界

神の意志をこの世に現すには、聖なる世界と交信するには、どうしたらいいのでしょうか。

一つのやり方は、お祭りであり、「政治」です。その場合、「代表(リプリゼンタティブ)」が集まって行なうのが、代議制です。つまり、民意という目に見えないものを、人間のかたちでこの世に現したものが「代表」です。

また「まつりごと」の場には音楽や演劇も欠かせません。音楽は、この世に見えないものを、この世に現す重要な方法でした。インドネシアでは影絵芝居がとても重視されていましたが、これは影絵芝居が、現実の世界よりもはるかに、「ほんとうの世界」を「映している」「代表している」と思われていたからです。古代ギリシャも演劇が盛んだったのは、よく知られるとおりです。p.217

そのほかの方法としては、詩人や霊能力者(霊媒=媒体=メディア)に、神の意志を降臨させてもらうことがあります。霊能力者や詩人には、誰がなるのでしょうか。これも人類学や宗教学の調査によく出てくることですが、俗世でいちばん役に立たない者が、あの世と交信できるという考え方があります。

俗世は労働と家の領域ですから、俗世で役に立たない者というのは、労働もできなければ生殖能力もない人です。たとえば目の見えない老婆や、初潮前の少女は、よく儀式の霊能力者となります。ふだんは役に立たない愚か者が、思いがけない力や知恵を発揮して村の危機を救うという話は、民話にはよくあるものです。こういう人は自力では生きていけないので、「お布施」で生活しています。

(中略)ポリスの世界は、生活の必然に縛られている経済と生殖の世界、つまり「私」の世界の利害を離れた、神聖な「公」の領域です。そこでは議論が行われ、詩がうたわれ、音楽や演劇がありました。(中略)

そして神聖な自由の領域に近い時間ほど大事にせねばならず、その領域に近い人ほど地位が高いとされました。古代ギリシャでは、働く者は素晴らしいという価値観はありません。働く者は賤しく、労働を担う奴隷はポリスの領域に入れません。(中略)

古代ギリシャでは、労働はいちばん地位の低い行為です。ポリスにかかわる統治は、より地位の高い行為です。さらに地位が高いとされたのは、日本語では「観照」と訳される行為で、これは現世の経済や政治にかかわらずに思索をめぐらすことです。pp.218-219

二〇世紀の思想家であるハンナ・アレンとは、『人間の条件』という著作で、古代ギリシャ思想をもとに、人間の行為を「労働」「仕事」「活動」にわけました。「活動」はここでいう統治ですが、アレントが重視したのは形骸的な政党政治や行政業務よりも、政治参加や政治活動です。古代ギリシャ直接民主主義だったことを考えれば当然です。(中略)

さらに「仕事」というのは、この世で長く残っていくもの、たとえば神殿やモニュメントなどを作ることです。哲学者や民会が神の意志を聞き、それをこの世に現すべく統治が行われますが、神の意志をこの世に現す行為として神殿や芸術作品などを作るのは、ふつうの労働より地位が高いのです。(中略)しかしもっと地位が高いのは、見事な「活動」をして、詩にうたわれることです。それは詩が刻まれた石板が消えても、永遠に残っていくのです。p.220

 「善のイデア」を感知する哲人王を育てる方法をプラトンは書いています。

まず素質のある者を選び、二〇歳から三〇歳で、天文学や音楽、幾何学や算術を勉強します。三〇歳から三五歳には、問答法を学びます。それから五〇歳までに、軍務や政治の実務経験を積んで王になります。

なぜこういう優先順位になっているのかというと、天文学、音楽、算術、帰化g買うというのは、イデアを感知する能力を磨くものだからです。現代の政治家の育成コースは、政治の実務経験や、経済学や行政学といった実務的学問を勉強する、ということになりがちです。しかしプラトンにとっていちばん重要なのは、「何が善か」を見極める能力であって、実務や実学などはあとにやればいいことです。pp.240-241

「感知する」と書いていますが、プラトンはくりかえし、感覚つまり視覚や聴覚などに惑わされてはならないと述べています。そんなものは不完全だし、錯覚もするし、そもそも「目には見えないもの」は感覚ではつかめません。それをつかむ五感を超えたものを、プラトンはロゴスといい、それは「理性」とか「知性」と訳します。p.242

本質を見抜くには、感覚を排除する必要があります。ですから、感覚を刺激して惑いを生じさせるようなものを、できるだけ避ける必要があります。p.247

・異なるあり方への思索

対立する個物、たとえば「私」と「あなた」がいるというのは、ヘーゲルなら精神(ガイスト)、マルクスなら生産関係が、この世に現象している形態にすぎない。それは常に変化する。その過程を、弁証法的展開とよびました。

それは以下のように進みます。まず自分の中に、あるいは共同態の中に、矛盾というものを自覚していない状態があります。(中略)なぜうまくいっているかを考えないし、おたがいが相手とほとんど一心同体だと思っている状態です。

労働者と資本家の関係でいえば、「うちはみんな家族だ」とか思っている状態です。この段階を「即自」といいます。(中略)

ところがその次に、「対自」の状態になります。矛盾があることに気がついて、「私」と「あなた」は違う、対立している、という意識になります。ここでの「私」とか「あなた」は、元からあった永遠不変なものではなく、精神なり関係の現象形態です。(中略)

この状態から、関係が変化せず、対立が固定化した状態になります。いくら働きかけても変わらない相手が、よそよそしく見えてきます。これを「疎外」と言います。

その関係を乗りこえて、より高次の段階に変化していくことを、「止揚」といいます。これは、矛盾を感じていなかった元の状態に戻る、「夫唱婦随」や「企業一家」に戻る、ということではありません。

なぜなら、いったんこの世に現れてきたものは、もとに戻すことはできません。この世に現れてきてしまった矛盾は、より高次の段階に進み、関係を変えることによってだけ、解決されるわけです。もちろん、「落としどころを探る」とか「調整する」とか「妥協する」といったいい加減なものではなくて、より高次の段階に進み、新しい関係を作っていくことです。pp.364-365

なぜ左派も右派も行き詰まるのか

ギデンズの定義だと、左派というのは、主体の理性を信じて、客体の操作可能性を信じています。計画経済や福祉政策など、政府が適切な政策をやれば、適切に社会を設計できるという考え方です。

それにたいし右派は、客体の絶対性と、主体の限界を信じています。伝統に帰れ。伝統はゆるぎない。あるいは市場にまかせろ。市場はまちがわない。人間の理性はあてにならない。だから伝統の前に、市場の判定の前に、謙虚に従うべきだという考え方です。pp.376-387

ギデンズは、伝統を不変のものとみなす右派を、原理主義と形容しています。ここでいう原理主義は、自分が作り作られていることを認めようとせず、おたがいの変化によって関係を変える対話(問答法、弁証法)に参加してこない態度です。ソクラテス的にいえば、何か絶対的な価値にこりかたまってしまい、「無知の知」に至っていない人、ということでしょうか。

原理主義の弊害は、暴力と対話拒否です。対話に参加して自分が変化することができない人は、対話を拒否するか、その究極として暴力に走ります。(中略)

原理主義は、カテゴリーに引きこもって対話を拒否する、という反応もおこします。宗教、民族、地域、性別といったアイデンティティに立てこもって、相手を非難します。世界のどこでも移民排斥運動があり、北イタリアの分離独立運動のような地域主義があり、インドのヒンドゥー右派のような宗教原理主義があります。それぞれに世界観や歴史観や「伝統」をつくって、自分の主張を正当化します。不安定性に耐えられなくなった人が、それに頼ります。pp.394-395

人類史的にいえば、政府と企業(市場)が強くなったのは十九世紀以降のことです。それ以前の社会では、政府でも企業でもない「人の集まり」が、個人の手に負えないことをやるのは普通でした。逆にいえば、「政府」と「市場」と「個人」しか思い浮かばない、それ以外は特別なものとしか思えない、というのはとても狭い考え方です。p.415

よく「これからの日本はどうなるでしょうか」と聞かれることがあります。私はたいてい、「ふつうの先進国になっていくでしょう」と答えることにしています。

ひと昔前に「日本のユニークさ」といわれた特徴、会社と政府におまかせで、政府に無関心で消費だけやっていても、レールに乗って一億総中流の安定状態が続いてくれる、そこそこにドロップアウトや犯罪があり、そこそこに市民参加や社会運動や政権交代があり、ときどき財政破綻や恐慌もあり、自分で考えて自分で行動しなければやっていけない社会。そういう国になるでしょう。p.427

・社会を変えるには

近代の経済学や行動主義政治理論は、「人間は本質的に利益を追求するものだ」という普遍原理を前提にすえました。マルクス主義は、「それは生産関係の反映にすぎず、生産関係こそが本質だ」という普遍原理をすえました。現象学は、「人間の認知は関係のなかで変化する」という普遍原理を提示しました。それもあてはまる部分がありますが、全部を解決してくれないようです。pp.464-465

それじたいが楽しいとき、目的であるときは、人間は他人に自慢したいとか、他人を貶めたいといった「結果」を求めません。受験勉強が典型ですが、ほんとうは楽しくなくてむなしい行為、アレントの言い方を借りれば「労働」をしながら生きているときに、他者と比べて自分の位置を測るとか、他者を貶めて優位に立つといった「結果」がほしくなるのです。p.499

働くこと、活動すること、他人とともに「社会を作る」ことは、楽しいことです。すてきな社会や、すてきな家族や、すてきな政治は、待っていても、とりかえても、現れません。自分で作るしかないのです。p.502

・おわりに

私の理解では、西洋思想(とされるもの)でも日本思想(とされるもの)でも、言い表し方は違っても、それほど違うことを表現しようとしているとは思いません。「理」を言い表すのに「西洋思想」を採用するか、「土着思想」を使うかは、ほとんど手続きの問題だと私は思ってしまいますし、丸山も柳田もそんなに単純に図式化できるような書き方はしていません。p.509

近代日本ではどんな「最新輸入思想」を持ってきても、材料が入れ替わるだけの同じ議論がくりかえされてきました。たとえば「説教」とみなされる側のパーツにマルクス主義や「近代市民社会論」が使われ、「ピンとこない」と主張する側の材料にヘーゲル思想やポストモダン思想などが使われたりしました。こうしたドイツやフランスの合理主義批判の思想は、「西洋合理主義」では割り切れない「日本土着」を正当化する材料として、明治期の国体論、昭和初期の京都学派、経済成長期の日本文化論まで、ずっと使われ続けてきました。p.511

***

キリスト教における相異なる要素の結合の象徴としての十字架

(Judee Sillの詩にもでてくる「Union of the opposite」)

ヘーゲルマルクスの唱えた、即自→対自→疎外→止揚という弁証法の過程

九鬼周造のいう意気地、諦め、媚態をその要素とした「いき」の概念

河合隼雄とアアルトの思想について考察していた時には、相異なる要素の対置、つまり弁証法の過程でいう「対自」や「疎外」の段階を強調していたのだけれど、その相異なる要素の結合、つまり「止揚」の段階というものを考えないといけない。

「いきの構造」において九鬼周造は「媚態」というものを「一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度」と定義していたけれど、この可能的関係を構成するということはつまり、二元的な分離の状態に自覚的でありつつなお、その相対する要素の結合の可能性を信ずるということなのだろう。相反する要素の対峙→結合という創造的過程は生命の誕生の過程と同一であり、新しい生命が誕生する過程というものはあらゆる創造的過程の象徴であるといえるのかもしれない。