小此木啓吾『自己愛人間』

 

とりわけ現代社会は、私がモラトリアム人間社会とよぶように、自己中心志向が非常に肥大した社会です。お互いが共有する理想像(自我理想)によって、個々人の自己愛を社会化・歴史化するアイデンティティがその機能を失った社会です。つまり《アイデンティティ》ー《自我理想(集団幻想)》=《裸の自己愛》の図式が現代人の心理構造です。

どうやら現代のわれわれは、自己愛をみたすことだけが、信じられる唯一の価値になってしまった世の中で暮らしているのではないでしょうか。p.15

鏡に映った自己像が自分の気に入るかどうか。できるだけ気にいるような鏡像をつくりあげ、その鏡像に恋をしている間は、誰でも人間はすごいエネルギーを発揮します。しかし、その自分への恋の陶酔がはかないイリュージョン(錯覚)にすぎないことがわかる瞬間、自己愛の満足からのエネルギーの供給は止まってしまう。p.16

・1 自己愛の心理

精神医学的にみると健康な人間というのは、とても楽天的で、おめでたくて自己愛的なものだという事実をここで厳しく指摘したいのです。大きな不安があっても、すぐに忘れてしまう。核戦争についても、「いろいろいわれてるけど、結局は、俺の生きている間には起こりっこない」とか、「まあ、日本はなんとかなるだろう」などと考えて、不安を忘れて自分に都合のいいように全能感をとり戻してしまうのです。「自分だけは特別だ」という気持ちが自己愛心理の基本であるとはじめに述べましたが、フロイトの理想主義とは矛盾して、このような全能感を抱けるということは、やはり精神医学的には健康のしるしとみなさざるを得ないのが人間のリアリティなのです。p.27

自信があり、優越感をもつ人の方が、自信を失い、劣等感にとりつかれた人に比べて強気だし、頑張るし、ものごとを達成する力を発揮する度合いが高いのは確かです。歴史上、英雄、芸術家、学者で天才的といわれる特別な才能を発揮し続けた人物には、こうした人並はずれて巨大で、しかもその自己愛をみたすために、理想的な自己を実像たらしめようと異常な努力と自己修練を積み重ね、人一倍の仕事を達成したというタイプの人がいます。p.37

・3 現代社会と自己愛人間

国家・社会に対して、あるいは組織やイデオロギーに対して、自分の自己愛を捧げ、アイデンティティという形でより大きな自己愛のために自分を賭ける生き方がどんなにはかなく空しいものであるか、もう二度とそうしたイリュージョン(錯覚)にだまされ裏切られることはごめんだ。ささやかでもよいから自分一人の小さな自己愛を大切にして暮らしたい。この思いが現代社会をつくり上げる原動力になっているのです。p.79

戦後の社会は、これらのアイデンティティ人間たちから主義主張のためとか、理想のためとかいう装いを剥ぎ取り、彼らをパーソナルな裸の自己愛のためだけの存在に引き下げることにひたすら意を注いだようにみえます。(中略)そして、いかなる英雄化も美化も許さない幻想から目ざめたシラケがひろがり、私のいうモラトリアム人間が到来したのです。p.80

日本軍人としてのアイデンティティを失ったとしても、平和の中で一市民としてよい妻子を得、平和な家庭に恵まれて、幸福になることこそもっとも人間らしい生き方である。つまり、戦後の先進諸国の人々のだれもが、アイデンティティ感覚の恐ろしさを痛感するとともに、アイデンティティへの希求こそどんなに恐ろしい災いをもたらす元凶であるか身にしみたところから、平和社会を出発させたのです。

モラトリアム人間とは、第一に、いかなる国家、社会、組織にも強い帰属意識をもつことを回避し、また、これらの組織、集団に対する忠誠を要求されることをきらう人間である。

第二に、彼らはどんな組織、社会に対しても一時的なかかわりしか持たない。

第三に、これらの組織、集団よりも自己自身を優先させる。

第四に、彼らは常に自己自身は温存させ、特定の役割や組織、集団の責任のために自己をかけてしまうことをしないで、あくまでも自分そのものを生き延びさせようとする。

私のいうモラトリアム人間は、この意味での戦後の平和社会の時代精神の所産なのです。pp.81-82

最近の学生はその教授が一生懸命に自分のライフワークについて講義をしても、その学問的情熱に感動するよりは、「なんであんなにナルシスティックなのか。先生の自己陶酔につき合わされるのはかなわない」といった目で先生をみてしまう。むしろ自分の学問についても、ちょっとつき放した評論家的なポーズで自分のことを語る先生の方が、親しみやすいということがあるようです。もっと評判がいいのは、やや自分を戯画化したり、クリティカルに話すような態度をとると、かっこいいとか、本当らしいという感じが伝わるようです。p.88

エリクソンは、現代の産業社会がますます進む中で、それぞれの民族・部族の持っているアイデンティティ、すなわち彼らの歴史的・社会的な自己愛は、次第に抹殺されていくというのです。(中略)

ここで問題なのは、経済的な問題ももちろんありますが、彼らの持っていた誇りー民族的・部族的あるいはそれぞれの社会の中で守られていた人間的な誇りが失われるという精神的な面が大きいのです。産業社会の中で、民族的な自己愛を抹殺されてしまって、そのときどきの裸の自己愛の追求と、眼前の欲望の満足だけになってしまった人たちが、大量に生み出されることをエリクソンは憂えているのです。p.92

生きている間は認められなくても、後世に名を残そうという形の自己愛のあり方があります。これは、やはり超個人的なアイデンティティと結びついた自己愛のみたし方です。しかしいまの世の中では、こうした自己愛のみたし方は、今日のプレイ振りがそのままテレビに映ったり明日の朝刊にのるというマスコミ志向の自己顕示型自己愛と対照的で、もはやなじめないものになっているのかもしれません。p.100

自己愛のように生物学的基盤がない欲望としては、攻撃性があげられます。生理的な満足がないだけに、攻撃性も自己愛と同様に限界がありません。(中略)

戦争時における攻撃性と平和時における自己愛が、もっとも際限なく満足を求める欲望だということができます。ですから現代のように、平和な社会で豊かになってくると、生物的なものに規定されている食欲・性欲のような一次的欲望は大幅にみたされて、二次的な欲望の方が優先され、それが支配原理になってきます。p.112

・4 自己愛パーソナリテイ

自己愛パーソナリティとはどんなパーソナリティ像をいうのでしょうか。

まず第一に、自分についての誇大感ー自己誇大感をもっています。自分は特別だとか、自分の能力は人よりすぐれていると思っている。心の中に、人並はずれて素晴らしい理想的な自己像を抱いている。

第二に、こうした理想的な自己像をいつも現実化しようと努力している。限りない成功、権力を獲得すること、才能を発揮すること、より美しくなることなどの理想の実現を休みなく追い求める。

第三に、絶えず周囲からの称賛や賛美、好意、親切、特別扱いを得ようとする。(中略)

第四に、このような理想的な自分をもち続けようという気持ちが強いので、周囲からの批判を受けたり、現実の自分がうまくいかない場合、そのことに無関心であったり、そのことを無視したり、否認しようとする心理をあげることができます。(中略)

第五の特徴としてあげたいのは、自己愛パーソナリティの持ち主は、理想的な自分になるために、ほかのあらゆる欲望、感情など、すべてを犠牲にしてもかまわないという貪欲さがあることです。犠牲にされる欲求や感情の中には、人と親密さを分け合うとか、誰かと愛し合うとか、日本流にいえば、義理人情の絆やつき合いを大切にすることも含めて考えて下さい。 p.137-138

太郎くんの例

家庭の中であまりのも彼の全能感がみたされ、誇大自己を期待されてしまったので、自己主張の強い自己中心的な子どもになってしまいました。(中略)いつも人が一番で、自分が中心になっていないと気が済まないという子供でした。(中略)ところがいわゆる一流高校に進学して、各中学校からの秀才の中に入ってみると、自分も平凡なその他大勢の一人にすぎない。(中略)

この太郎くんのような無気力状態や登校拒否を理解するには、自己愛パーソナリティの見方がとても役に立ちます。このような状態から脱出するためには、太郎くんの心の中にできあがった誇大自己に適うような、何かが見つからないと、活力源が得られない。しぼみきった自己愛を、どうやってもう一度ふくらましてあげればよいのか。こういう心理構造をもった人物は、人並はずれたよほど素晴らしい自己像を頭に描けないと元気になれないのです。pp.143-144

・5 自己愛人間の生態

戦前から戦後、そして現代に至る社会は、かつてフロイトが「個」の自立のために必要であると考えたいくつもの集団幻想の主体的な破壊は、主体的にではなく受身的に破壊されるプロセスを必然的にたどってきました。

第一は、女性のせい愛に対するタブーの解体です。(中略)

第二は、家族幻想の解体です。(中略)

第三は、国家幻想への幻滅、第四は、宗教に対する幻想の喪失です。フロイトはこれらの集団幻想からの自由な知性に基づいた「個」の確立を人類の普遍的課題であると考えていました。それを主体的に人間の内面にそって行う道を提示したわけです。

フロイトにとっては自分を支配しているこれらの集団幻想から、内面的・主体的に脱却することが「個」の自立を目指す人間の根本的課題でした。ところがフロイト以後八十年の間にどういうことが起こったかというと、これらの集団幻想がモノ的な力によって受身的に解体されてしまったのです。性の解放も、女性の解放という形で社会現象として起こってしまいました。家族も解体し、親の権威も地に墜ちた。国家の権威も宗教の権威もイデオロギーも失われた。

つまり外から見れば、二〇世紀初頭にフロイトが個々人の内面で達成しようとした主体的課題がすべて外的な世界のこととしては没主体的に達成されたのが現代です。p.166

もともと日本的マゾヒズムは自己愛がみたされる期待を内に含んでいるわけです。ですから、自分の欲しいものを自分がみたすことよりも子どもにみたさせるー自分の自己愛の満足を犠牲にして子どもの自己愛をみたすことで満足するというような、自己愛的同一視のメカニズムが働いているのです。つまり日本的マゾヒズム対人関係そのものが、実は日本的自己愛のみたし方でもあるわけです。(中略)

このような親子関係のモデルが日本人の対人関係全般にわたって働いています。会社と自分を自己愛的に同一視して、マゾヒスティックに会社のために貢献する。しかし、それを通してみんなからほめられたり、評価されたりすることを期待しているわけです。pp.204-205

昔から「父はへその緒を断つ」という言葉があります。これは象徴的な言葉で、父親が母親と子どもの間に介在することによって、母子の間の一体のイリュージョン(錯覚)が壊されるわけです。(中略)

母と子の世界というのは絶対的であるし、社会以前の感覚的自己愛的な世界です。そこに父親と母親と子どもという三者関係が成立したときに、初めて自己愛的な世界ではない、第三者が入り込んだより理性的な世界が成立するわけです。

ラカンはこのことをとても強調しています。父の名をもったときに、初めてその子どもは社会的な存在になるということです。パーソナルな自己愛だけの子どもが、社会的な存在になるのは、父の名にふさわしいものになる過程なのです。pp.207-208

・エピローグ

モラトリアム人間化するにつれて《アイデンティティ》ー《自我理想》=《裸のパーソナルな自己愛》という公式が当てはまるような精神的変化が戦後四十年の間にほぼ完成してしまいました。この動向は、第五章で述べた執行原則の威光失墜でもあります。人権尊重社会の中で、誰もが、個人中心志向だけが信じられる唯一の価値観と思うようになりました。アイデンティティも自我理想もないパーソナルな自己愛をお互いに尊重する思いやりと気づかいによって、お客さま、奥さまとしてとても大切にされ、誰もが自分の自己愛が満たされているというイリュージョンの中で暮らしています。それぞれ身近で手近な眼前の日常的な営みによって「分」に応じた自己愛をみたしています。p.221

われわれ日本人は、先進諸国の一つとしての自己愛社会化が進むにつれて、何やら奇妙な日本人返りムードの中で暮らしはじめています。日本人が、何となく現代社会に適応性が高いというのも、実はこの点にその秘密があるのではないでしょうか。(中略)

自然との調和とか、一体感とよばれるものは、母なる自然との相互性への自己愛的な楽天性を培ってきました。ところが、現代の日本人は、こうした自然との直接的なかかわりを喪失してしましましたが、それに代わる人口環境に対しても相変わらず、同じような自己愛的な楽天性や相互性への信頼をそのまま向け変えているようにみえます。pp.223-224

現代社会の中で暮らす自己愛人間について、とりあえず私は五つのサブ・タイプをあげてみたいと思います。

第一は、自己実現型の自己愛人間です。(中略)特別な才能をもち、それだけに理想自己が高く、その実現のためにひたすら努力し、エリート・コースを進む人々です。(中略)

第二は、同調型・画一型の自己愛人間です。いわゆる平均的な大衆であって、現代のわが国社会でもっとも安定し、自分、あるいは家族、身近な仲間、同僚ぐらいの生活範囲で、比較的容易に手に入る消費的な自己愛の満足で暮らしている人々です。(中略)

第三は、破滅型の自己愛人間です。ここで、破滅型自己愛人間というのは、一方で親子関係の中で特別に自己誇大感が肥大するような人となりをもち、しかも思春期以後になって、自己実現型になるほどの現実能力ももたないために、自分は特別という自己愛が破綻して挫折してしまうタイプをいいます。(中略)

第四は、ジゾイド人間化です。(中略)人との深い対人交流やかかわりを回避し、対人関係につきものの心の悩みや対象喪失による悲哀・不安をさけようとする。とくに画一的行動パターンへの同調(同調的ひきこもり)を主な適応様式にする。(中略)

第五は、いわゆるおちこぼれとか、はみだし型の自己愛人間です。(中略)自己愛は、苦痛・深い・怒り・憎しみ・恐怖・迫害などからその人を守るバリヤー(防壁)の役目を果たし、種々の欲望のコントロールシステムを維持し、さまざまな精神機能の活力源になっているからです。それだけに、全能感が失われ自己愛が傷つき、深刻な幻滅が起こると、精神的な危機が襲います。pp.227-231

自己愛肥大症は、実は自己破滅や迫害の脅威から目をそむけ、負の世界の現実を否認するための自分と、この現実の幻想的な美化と理想化の所産だということです。そして現代日本のわれわれは、まさにこうしたイリュージョンとして幻想的に肥大した自己愛の中で自分たち本位の、豊かな平和な暮らしに恵まれているようにみえます。

しかしながら最近になってこうした自己愛社会のままでは国内的にはともかく国際的には、危険なのではないかという警鐘の声が高まってきました。奇妙なのは外敵の脅威が叫ばれるのと並行して、日本ぐらいすぐれて素晴らしい国はないといった自己誇大感が口にされはじめたことです。(中略)これは誇大妄想をもった精神病者が、次第に自分が否認し、排除していたはずの負の世界に影に脅え、危険な迫害者が自分を攻撃してくるのではないかという被害妄想をもつのと似ています。江戸時代の平和な自己愛社会とちがって、現代の日本社会は同時に国際社会の中にいるために「日米貿易摩擦」に代表される黒船の来襲と、その脅威を追い払うため、ことさらに自己誇大感を高めようとする明治以来のナショナリズムの回帰が懸念されます。pp.233-234

・補遺 自己愛理論セミナー

東洋の仏教の場合、もちろん性欲を克服することも大きな課題として取り上げられていますが、むしろそれは小乗仏教的な課題であって、人間のもっとも根源的な煩悩は「我執」、つまり「我に執着する」ということです。自己愛にとても近いような意味での自己に対する愛着・愛執を人間の煩悩の根源として問題にしているのです。

西洋では十九世紀になって、フロイトによって、初めて自己愛が人間の根源的な欲求として登場してきました。これに対して東洋では仏教のなかで、自己愛は煩悩の最たるものとして昔から洞察すべきもっとも究極的な基本問題でした。この違いは、人間の悩みのあり方の東西の違いを示しているといえるようです。p.238

キューブラ・ロスという精神分析学者は、死に挑んでいる患者のためには、むしろ最終的にはロマン・ロランが大洋感情とよんだものと共通の宇宙と一体感を抱くような幼児的な自己愛はむしろ守ってあげた方がいいと考えています。(中略)自分の肉体は死んでしまっても、来世があるとか、生まれ変わることができるとか、不滅の何かを信じる死生観と信仰によってはじめて死の恐怖と孤独に耐えることができるというのです。そういう意味での自己愛ー”宇宙的自己愛”あるいは”超越的な自己愛”とでもいうべきものを持っている人のほうが、死に挑んで自分を強く保つことができると、実際に臨死患者を扱っている医師たちはいっています。p.240

ここでいう健康な自己愛は、快く楽しく喜ばしいものであるのはもちろんですが、一方で、対象(母親)の向上性と同一性、自己自身の不変性・一貫性と同一性に対する基本的な信頼と表裏をなすもので、エリクソンのいうアイデンティティの原型であり、源泉であるということができます。

この意味での健康な自己愛を身につけた人間は、それ以後の人生でさまざまな困難や不信を経験しても、人間に対する信頼と、自己自身に対する信頼を抱き続けることができ、人間と自己に対する希望と信頼を最後まで失わない自我の強さを保ち続けることができます。

とくにここで強調したいのは、健康な自己愛は、母親から一方的に受身的に愛される経験から生まれるものではなく、むしろ自分が母親に対して向ける身振り、態度など愛情表現が相手を喜ばせ、相手の心をみたすという能動的な働きかけが相手から受け入れられることの自信を意味している事実です。なぜならば、この意味での自信こそ、エリクソンが、人格の活力源というように、その人物の愛情、仕事あるいは人生そのものを達成すための能動性の源泉になるからです。そしてこの能動性は、相互性(ミューチュアリティ)への信頼に支えられているわけです。やがて子どもは、いままで述べた母子関係をモデルにした相互性を、父、家族、近隣、学校、職場……へと社会化していきます。その生活圏(エリクソンのいわゆる、自我ー時間ー空間)はどんどん広がり、かかわり合う社会集団や組織は拡大し、歴史的、時間的にも広がっていきます。

この世界の拡大とともに、(中略)「……としての自分」はどんどんその数を増していきます。つまり、それはそれぞれの相手や集団の価値観(集団同一性)に同一化し、その価値観と役割の達成を通して健康な自己愛のみたし方が拡大していくプロセスです。pp.266-277

男根期自己愛に固着するには、二つの要因があるとライヒはいっています。まず一つは母親からちやほやされること。男根期自己愛性格は男性はわりあい幼い頃から母親の寵愛を一身に受けてきた場合が多いのです。もう一つの要素は、男根期自己愛性格の人間には去勢不安が強いということです。(中略)

男の子にとっては、それまで母親に溺愛されてきて、自己愛が肥大していたのが、そこで突然拒絶されて、自分について幻滅を経験することになります。理想化していた母親に拒絶されたことによって、幻滅を経験します。そのときに、それを防衛する意味で空想的な男根期自己愛が異常に肥大するのです。(中略)

男根期自己愛性格は、父親との対決によってできあがるものではありません。むしろ、自分のために何でもしてくれる自分本位の愛情をもっていると理想化していた母親が、ことペニスをめぐる問題になると、突然自分の思う通りにならなくなって幻滅を与えるところから、異常に肥大した自己愛幻想をもっています。現代の男の子が、父親との対決の機会をもっていない母性化した社会の中で、とりわけ男根期自己愛型になりやすい理由もおのずから明らかだと思います。p.330

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