池上彰、佐藤優『新・戦争論』

  佐藤 いまの日本は、ある意味で、民主主義が進みすぎて息が詰まりそうになっているように思います。 民主主義は独裁と矛盾しません。一〇〇人の議員が九九人に減っても問題ありません。九八人でも問題ない。その操作をずっと続ければ、最後には一人でも問題ないとなる。ドイツの法哲学者、カール・シュミットが言っている通りです。 それに対し、自由主義の根本原理は、「おれが人に迷惑をかけていない限りおれに触るな」というものです。今の日本は、民主主義の危機ではなく、自由主義の危機なのです。民主主義が自由主義の領域を侵犯しようとしている。p.224 佐藤  共時的なモデル、つまり今の時代にはよいモデルがない。かつては共産主義というモデルがあったわけです。あるいは新自由主義にしても、共時的モデルとしてあった。それがなくなると、通時的にモデルをつくるしかない。しかし、未来を想像するのは難しいわけで、過去にモデルを求めるのです。ただ、その過去のモデルというのは、過去そのままではなく、必ず現代に引き付けて解釈されていて、別のものに変質していく。 近年、「近代の超克」の再評価があるようですが、私が思うに、「近代」は、超克などできません。 「近代」というのは、自由、平等、友愛でしょう。 「自由」というのは、おそらく「資本」のことです。資本の自由な働き。そうすると、それがとんでもない格差を生み出すのは当然です。 「平等」というのは、これは力が背景にないと実現できません。その力とは、おそらく「国家」です。国家機能によって平等を実現していく。これは独裁制にも帰結する。平等を追求すると、そうなるのです。あるいは皇帝がいて、そのもとでフラットにする、という発想になる。イスラム帝国というのは、おそらく「平等」の考え方から出てくる。しかし、すべての人を平等にするためには、圧倒的に強い人が必要になる。(中略) それからもう一つの「友愛」というのは、柄谷行人さんが「ネーション」と呼ぶものに近い。(中略)しかし、友愛は、実のところ、ネーションではなく、「エスニシティ」、つまりエスニックな集団でしょう。自分たちは、血筋が一緒、文化が一緒と信じていて、外からもそう認知されているグループ。経済合理性と違う原理で助け合う人たちのことです。 「自由」「平等」「友愛」という、この三つが、資本主義システムのなかに埋め込まれているのです。三つのうち、いずれかが強くなると別のものが出て来て、それを抑える。一番目の「自由」によって、新自由主義的な形で経済の力が大きくなりすぎて、格差が広がる。すると、システムが壊れてしまうからというので、「国家」が出てきて制御しようとする。それから別の形においては、エスニシティが出てくる。pp.245-247 ***