石原考二編『当事者研究の研究』

 

当事者研究の研究 (シリーズ ケアをひらく)

当事者研究の研究 (シリーズ ケアをひらく)

綾屋紗月 河野哲也 向谷地生良 Necco当事者研究会 石原孝二 池田喬 熊谷晋一郎

医学書院

  

・第二章 河野哲也当事者研究の優位性 発達と教育のための知のあり方」

事例研究は、一つの事例を線形的な過程に分解するものでもなく、ただ事例をいくつかのタイプに分類して満足するものでもない。事例研究は、ある個別的対象がその内外の諸要素によってどのような変化の奇跡を描くのかを記述し、その構成要素の相互関連全体の変化の過程を捉える。単純にいえば、事例は、さまざまな要素が絡み合ったひとまとまりのエピソードとして理解されるのである。

事例研究は、人間を扱う科学における実践の上での重要性を指摘されながら、これまで科学的な方法論としては認められてこなかった。人間科学における研究者の発想が物理学をモデルとした法則主義に縛られていたからである。しかし、法律の判例主義、医学における事例研究、心理学における事例の質的研究、教育における学級研究や個人の成長記録と個別の支援、歴史研究、文化地理学、生態系の維持・保全・成長、企業経営の立て直しの記録。これらの分野でなされるのは、一つの事例の時系列的な変化の記録であり、その変化は、事例という一つの布置の構造変化として記述される。pp.103-104

当事者研究は、自分を対象とした事例研究である。しかし忘れてはならないのは、その研究は自分の問題をなんとか乗り越えたいという価値と方向性をもとに、観察と知識が組織されているということである。当事者研究は、成長のための研究である。成長する生命を扱う科学は、対象を傍観者的に観察することでは成り立たない。人間を対象とする科学の知は、当人が設定する価値から切り離せないし、切り離されてはならない。

事例研究は珍しいものでも新しいものでもない。むしろそれはある意味で人間に関する科学の中心をなしてきた方法である。だが、普遍学を標榜する「科学」が知の主流を為す学問世界の中では不当な扱いを受けてきた。

しかし普遍性を訴える科学は、人間に関しては何を研究しているのだろうか。さまざまな人間存在の中から、一般的な性質を抜き出し、抽象化することが科学なのだろうか。そうした一般論は、個々の事例の重要な特殊性を取りこぼしてしまう。それでは、自分の問題をなんとか改善しようとしている当事者にとっては十分に役立つものとはいえない。人間に関する科学は、個々の人間の成長に役立つ知を提供すべきであり、そうした科学の目的は、普遍性の発見ではなく、個々の事例の問題解決であってよいはずだ。pp.104-105

・第三章 池田喬「研究とは何か、当事者とは誰か」

こうした意味での研究を始めるためのもっとも重要かつ必須の動機は、どうしても解き明かしたい問題を持っているということであろう。河崎青年の場合のように、この問題は日常生活においては苦労や悩みとして現れることがある。逆にいうと、日常においていろいろな問題を抱えていることは研究の原動力になる。いろいろな問題はその人の事情によりさまざまであり、問題の数だけ、当事者研究のテーマは多様でありうる。当事者研究の原点は、生活の中で何らかの問題や困難と向き合っているということにある。

悩みを課題やテーマに変換するという当事者研究の基本性格は、哲学の研究から見ると非常に納得がいく。世界が存在しているとなぜいえるのかとか、幸福は何かとか、およそ哲学的な問いとは、一種の悩みであり、この問いに悩まされることは、日常を円滑に過ごすためにはしばしば障害となる。しかし、研究という場にあってはまさにこうした問いを立てることこそ重要であり、その問いについて同じ言葉を共有する仲間の存在は、悩みをおもしろさに転換する可能性だといえる。もっとも、哲学でなくても、問いを手放さず、それにある意味で憑かれていることは、優れた研究にとってはどこでも、本来必須とされるものだろう。

しかしながら、主体的実践として語られるような当事者研究の研究のかたちを、本物の研究と認めることに抵抗感を覚える人も少なくはない。このことも他方で事実である。

そこにはこのような考えがあるように思われる。

生きる主体性を取り戻すという当事者研究の要素は、自助グループや社会運動団体の目的としてはよくわかる。けれども、大学などで行われている〈理論的〉な研究は、主体性を取り戻すというような〈実践的〉な目的を持っているわけではなく、だからこそ、〈客観的〉な研究に打ち込めるのではないか。そして、この点と関係して、どうも当事者研究には科学的探求に求められる「客観性」「一般性」「エビデンス」が欠けているように思われる。したがって、本物の研究と呼びうるものではないか、まだなっていないのではないかー。

当事者研究に関する学習会や討論会でこの種の疑問を耳にすることは多い。

現象学的な考えからすると、こうした疑問は的を射ていないように思える。そして、当事者研究はまさに研究という活動の一部であるのみならず、人についての研究のあり方を根本から問い直すことを含み込む、際立った研究なのだ、と主張したくなる。pp.108-109

フッサールハイデガーは、ある研究が真に科学的である基準として「生の現実から乖離しないこと」が立てられるべきだとー実に単刀直入にー主張した。今から七〇年以上前にフッサールは、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』[1995]において、精密性と実証性を原理とする客観的科学が「生に対する意義」を失ったことを科学の「危機」として告発した。また、ハイデガーは、客観化する理論的ふるまいが「生からの乖離」[ハイデガー2010:75]と表裏一体であるとして、体験に「客観化」ではない仕方でアクセする学問的方法の開発を目指した。その働きが現実に存在したかどうかという、まさに研究の根本前提いに関して確実でない専門家的記述よりも、現実に存在する体験についてのものであるという確実性において常に勝る当事者視点の研究こそ、現象学的な学問の理念に沿っている。

この意味での危機は、体験の主体とこの体験を研究する主体が統合されない限り、時代が変わっても克服されはしない。この危機を、現在、乗り越えようと努力しているのが当事者研究であるように思われる。pp.123-124

フッサールによれば、私たちは、他者を、第一に、身体として知覚する。そこで知覚される身体は、ここにある私の身体ではない。他者は、私の身体に類似したものとして出会われるのである。この類似の身体を知覚することと、単なる物体を知覚することの間には重要な差異がある。なぜなら、類似の身体として知覚する場合、私はその身体を私と似たような仕方で感じ、動くだろうもの、類似の身体感覚を有しているだろうものと見なすからである。私の身体は、体をこう動かせば景色はこう見えるとか、こう動かせば事物をこう移動できるとか、数々の「……であれば……であろう」という図式を生きている。私が、あそこに単なる物体ではない「類似の身体」を見出すなら、自分に類似の図式を生き運動するであろう身体として知覚されるというのである。

私の身体と類似の身体がそれぞれ運動し合うことが、世界が客観的に存在すると確信するための基盤になる。フッサールをこのように考えるに至らせたのは、誰一人として事物を全面的に知覚できない、そのような超人は存在しない、という事実である。机を知覚するときに、裏側を見ることはできない。(中略)しかし、その机の事物の裏面は凹んでいるかもしれないとか、存在していないかもしれないと不安に苛まされることがないとすると、それは「……であれば……であろう(たとえば、ああ動けばこう見えるだろう)」という身体感覚を信頼うしているからである。(中略)

ところで、客観性という場合、事物や事象の「観察」がそれを保証する行為として頻繁に語られる。しかし、そもそも事物とはさまざまなパースペクティブに対して多様に現れるのであり、そうである限り、真に客観性に貢献する観察が成り立つためにはさまざまなパースペクティウから同一の事物を見る各自の主体がいなくてはならない。この「見ること」は、その事象に関係する複数の主体の視点から多角的になされなければならない。その意味では、特権化されたーたとえば一部の専門家のー視点のみからなされた観察はそもそも「見る」といえるほどのことをなしていない。このことは知覚事物だけでなく、人の体験についてもいえる。

あるいはこうもいえる。すべての人の体験を見渡せる視点に立つことのできる人間は存在しない。したがって、十把一絡げの「一般化」という意味での客観性は、その理念をそのまま肯定するなら、超人的な認識上の特権者ー哲学でしばしば「神の目」と呼ばれるものーの定立につながり、結局は、学というよりも神話に近いものになってしまう。

だから、学問的研究にとっての客観性とは、共同的でパースペクティブ的な間主観性(間主体性)として生成するものだ、という考えが現象学の基本にある。そして、当事者研究が、特権的な知の専有者を認めずに、一定の体験を「自分自身で、共に」解釈することを明確に方法論として取り入れているのは、こうした共同的でパースペクティブ的な客観性を自覚的に立ち上げるためであるように思える。 pp.136-138

類似性と同一性と混同することの危険は、実際、当事者研究の中で再三指摘されている。もともと少数派的な身体を生きることは、他者の身体と自分の身体のつながりが見出しにくいという苦境とセットである。そして、この苦境が深まれば深まるほど、この苦境を克服する道が、他者と完全に同一化することに求められることは少なくない。

たとえば、アルコール・薬物依存症の当事者研究で知られるダルク女性ハウスでは、「すべてを理解して受け入れてくれるんでしょ?」という期待から他者との距離を失うことを「ニコイチ」と呼んでいる。自分と他者のパースペクティブの違いが失われて、自分の身体感覚に他者の身体感覚が同一化するという発想は、現実的な危険を呼び寄せる。pp.139-140

ここでの問題の一つは、健常者中心社会の住民の大半が、健常者性の固い確信とともに、自分自身の身体の個性を見失っているということではないだろうか。平均化された健常者的な身体を動かしている場合、人は、病や事故に見舞われない限り、自分の身体に大部分無頓着である。大多数の身体と同調できるようになった代わりに、自分の身体の状態について自分の言葉を立ち上げることなく、健康や病についての一般的な知識を運用するだけ、ということはよくある。

ところで、べてるの家当事者研究のモットーの一つは、研究によって生きる主体性を取り戻すということだった。これは生涯当事者にとっての問題で自分には関係ないと思うとしたら、うかつと言うべきだろう。

健常者とおは身体の平均化に成功した代わりに、自身の身体を表現する言葉を欠いた人なのだとすれば、自身の身体を知り、生きる主体性を取り戻すという、当事者研究の問題提起は、まさに健常者性に疑いを持たない人にこそ当てはまるように思える。当事者研究を読むためには、書き手の身体を「類似の身体」として想像的に取り込む必要があるが、そのためにまず必要なのは、読み手の一人一人が自分の身体を知りたいと思う動機や、知ろうとする意思である。 pp.145-147

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