『歎異抄』

  ・後序 本当にわたしどもは、如来のご恩がどれほど尊いかを問うこともなく、いつもお互いに善いとか悪いとか、そればかりをいいあっております。親鸞聖人は、「何が善であり何が悪であるのか、そのどちらもわたしはまったく知らない。なぜなら、如来がそのおこころで善とお思いになるほどに善を知り尽したのであれば、善を知ったともいえるであろうし、また如来が悪とお思いになるほどに悪を知り尽したのであれば、悪を知ったといえるからである。しかしながら、わたしどもはあらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、この世は燃えさかる家のようにたちまちに移り変る世界であって、すべてはむなしくいつわりで、真実といえるものは何一つない。その中にあって、ただ念仏だけが真実なのである。」と仰せになりました。本当に、わたしも他の人もみなむなしいことばかりをいいあっておりますが、とりわけ心の痛むことが一つあります。それは、念仏することについて互いに信心のあり方を論じあい、また他の人に説き聞かせるとき、相手にものをいわせず、議論をやめさせるために、親鸞聖人がまったく仰せになっていないことまで聖人の仰せであるといい張ることです。pp.106-107 親鸞聖人の法語(解説:悌實圓) ・第四条 人の世には「愛」がなければなりません。しかし、その愛がひたむきであればあるほど、悲劇的であるところに人間という存在の悲しさがあるのです。そうした人間の悲しい現実を包み、心の傷をいやしていくのが阿弥陀仏の大慈大悲の本願でした。p.157 ・第五条 父母を敬うということは、実は一切の有情を救うという意味をもつのだから、とうてい凡夫としてできるわざではないといい、第二には、念仏は、私どもの一人ひとりが生死を超える道として、如来から賜った行であって、私が造った功徳ではないから、亡き人に施すということは、まず自分が自力をすてて本願に帰し、浄土のさとりを完成した上でのことであると諭された法語です。p.158 ・第七条 おもえば人生に、さまざまな障礙と挫折はつきものです。この世にうまれてきたかぎり、それを避けて通ることはできません。ただその障礙と挫折の苦悩を、空しい繰り言の材料として終わるか、それとも門法の機縁として生かしていくかが問われるのです。逆境が尊い法の縁となり、苦い後悔が念仏を申す機縁に転じていくならば、障りが真理を確認する功徳に変わる道理もあるのです。p.160 ・第十六条 本願他力を信ずるものにとって、回心とは、自力を捨てて他力に帰するという決定的な、ただ一度のできごとをいうのであって、悪を犯すたびに回心しなければ往生できないというものではありません。むしろそれは悪を廃して善を修行し、こころを浄化してさとりを開こうとする自力聖道門の人の教えであるというのです。p.168 ***