牧野篤『主体は形成されたかー教育学の枠組みをめぐってー』

      ・知の権威主義 近代市民社会は、この超越的支配者を排して、万人の平等性を想定する「平等性」原則の上に定立する社会であり、それは一見、あらゆる差別を解消したかのように見える。しかし、その実、この「平等性」は、各個人の持つ差異をすべて捨象して得られる抽象的概念であり、その「平等性」によって想定される同等な個人も、あらゆる差異を切り捨てられた表象概念でしかなかった。それは、資本主義的生産が大工業時代に入り、商品の大量生産を可能にするに伴い、商品の企画化・均質化が求められたのと同様に、しかもそれと歩調を同じくするかのように、人間=労働力・消費者の規格化・均質化が求められ、それを「平等」として表象したものに過ぎないのである。しかし、この人間の「平等性」は表象されるや否や、一つの価値基準として、人間そのものを拘束することとなる。こうして、人間の個性などの質的差異は「平等」・同等なもの、つまり同質なものの量的な格差へと読み換えられ、一つの基準にもとづく直線的序列へと組み込まれ、人間はその基準により多く適応する「平等」の中の競争へと駆り立てられ、その適応の度合い=量差によって差別されるという新たな差別構造に組み込まれていくのである。 近代市民社会においては、「聖」なる権力としての絶対的支配者は否定されたが、それに代わる権力すなわち質的差異を同質なものの量的な格差へと組み換える基準が持ち込まれる。それは、「聖」なる権力を支える宗教的権威主義に対抗する、資本家権力を支える文字と合理的「知」の権威主義的体系である。この社会にあっては、人々を支配する超越的な「聖」なる権力は存在しないが、権力はむしろ人々の中に内在化され、人々を特定の価値基準への適応へと向かわせ、その適応の度合い=量差による差別を繰り返す構造が形成されることとなる。そこでは、この権力は、「聖」なる権力と同様に、人々によって相対化されることはなく、絶対的な価値基準として振る舞うのである。p.111 ・近代科学の認識論 近代科学の認識論の構造においては、主体と客体の二分法が先験的におかれるのであり、主体が客体を認識すると同時にその客体をくぐり抜けることによる自己認識、または主体は客体を認識する主体でありながら、その主体である自己は客体からも認識される客体であるという自己認識、つまり相互主体的な認識の図式は想定され得ないということである。換言すれば、主体である人間は自らの認識を認識する筋道を形成しえないのである。こうして、ここにおいては、いわば絶対的な客観主義と絶対的な主観主義とが同時に成立し、共存することとなる。 しかも、近代市民社会は、この科学を制度化し、「知」の権威主義的体系として構築してきた。このような制度化された「知」は、それが客観性・中立性として神話化され、表象されるが故に、認識主体である人間に内在化され、絶対的主観へと転じ、主体によって懐疑される対象とはなり得ない。つまり、近代市民社会において制度化された「知」は、資本家権力を支える権威主義的体系として構築され、その表象化された客観性・中立性の故に、同等である人々を量的に差別する秩序の体系へと形成されることとなる。人々は、この「知」をどれだけ受け入れ、どれだけこの権威主義的体系の秩序を上昇したかによって、その価値をはかられるという幻想にとりつかれ、際限のない適応競争を繰り広げるように仕向けられることとなる。このことは、日本のみならずいわば「近代」化への途上にある国々における教育制度が、上から下へと降ろされる形で構築され、しかもその内容が「科学」的知識編重、その方法が詰め込み主義的であることに典型的に示されている。 そして、このような制度化された「知」の権威主義の体系においては、既述のように、人々はそれを内在化することで絶対的に主観化し、その「知」を疑う筋道を制度的に遮断されることとなる。こうして、人々は、この「知」の権威主義への適応競争に駆り立てられるとともに、科学的知識や科学技術への信仰を強めて受動的になり、少数のテクノクラート官僚に支配される客体へと転じていくこととなる。こうして、科学はその存在基盤であるはずの民主主義すなわち既存の価値・権威への健全な懐疑を自ら解体し、結果的に自己否定へと陥ることとなるのである。環境破壊などヨーロッパ近代の限界される現実は、このような科学の認識論の構造が故に招来されたものであり、それに対するアニミズムや「和」の精神を対置すれば解決するようなものではない。(中略) 近代市民社会以降、現代の国家に至るまで、国家権力はいわゆる近代科学の認識論の構造に乗りかかりながら、科学技術・科学的「知」の客観性・中立性ひいては無謬性を神話化することにより、それを人々の絶対的主観へと転じ、その「知」そのものを疑う筋道を管理することで、人々を一つの権威主義的体系の下におき、「国民」化して、統制してきたのだといえる。「国民」化された人々は、この国家権力の示す「知」の権威主義的体系を内在化することによって価値=社会的地位が高まるという主観=幻想に衝き動かされ、際限のない適応競争に駆り立てられるのである。いわば、既述のメビウスの環同様、その環の帯に刻まれた価値尺度は異なろうとも、その結び目を国家権力が握っているがために、それはあたかも一本の帯であるかのごとく立ち現われて、適応競争の直線的価値尺度として表層化されているのだといえる。pp.112-114 ・日本的「集団主義」の特質 この体制においては、企業のもつ秩序やその目的すなわち権威主義的体系は、「平等」な労働者一人ひとりに内在化され、絶対的な主観へと転じ、労働者の自己目的と化し、自らの生活の向上と企業体制への適応とが同一視される。この権威主義的体制=価値尺度における階層の上昇は、唯一の権威により近づくこと、すなわち人間的価値の高まりとみなされる。しかも、この権威主義的体制は、企業の利潤追求が科学技術の進歩と並行しているように、科学的「知」によって合理化されている。ここでは、この唯一の価値基準に適応できない者は排除され、「ムラ」八分にされる。こうして、日本型集団主義と呼ばれる、世界にも類を見ないほどの競争原理が貫徹した「集団」が出現することとなった。このことは、国家の体制においても基本的に同様であり、それは天皇制国家体制に端を発していることが指摘されなければならない。ここに「日本的経営」の特質が存在する。 このような競争原理の貫徹した国民意識を組織化し、拡大再生産する国家装置が、教育制度=学校である。国民は学校教育を通じて、既存の国家的価値秩序を支える「知」の権威主義的体系を受け入れることを迫られ、知識主義・学歴主義へと駆り立てられるが、その過程で、自ら受け入れた権威主義的体系すなわち自らの認識を認識し、「懐疑の知」を形成する力をスポイルされてしまう。pp.114-115 ***