隈研吾『建築的欲望の終焉』

 

・「住宅私有本位制」資本主義の崩壊

1920年代のヨーロッパが、公共住宅においてこのように輝かしい実績を積み重ねたのに大使、アメリカの施策は対照的であった。住宅不足が問題であったという点において、アメリカもヨーロッパと同じ状況に置かれていたが、アメリカは公的援助による公共住宅に対して、何ら関心を示さなかった。かわりにアメリカで行われたのは、住宅建設に対する税制の優遇措置と、住宅ローン制度の新設であった。(…)

アメリカがかくも公共住宅を無視した背景には1919年から20年間にかけて始まった「赤の恐怖(the Red Scare)」がある。公共住宅は共産主義につながるものだという恐怖が、アメリカを公共住宅から遠ざけた。ただし、この選択はアメリカの資本制にとってはまちがいなくプラスの方向の選択だったのである。まさにエンゲルスの予言のとおりに事態は進展した。アメリカ人はFHAの導くままに住宅に対して欲情し、その欲情の結果、住宅ローン返済のために、一生、農奴のごとき勤勉さで働き続ける道を選択したのである。しかもその欲情は勤労意欲として資本制にフィードバックされただけではなく、住宅建設という、実質上の需要として、資本制に投げ返され続けたわけである。かくしてアメリカの資本制は強力なエンジンを獲得し、結果としてアメリカの資本主義は20世紀の経済的ヘゲモニーを獲得するにいたったのである。 pp.23-24

ケインズ/ミース的虚構の崩壊

ケインズが経済の世界においてはたした役割を、建築の世界において、ミースがはたした。ミースは一面において明らかにモダニストであるけれども、一面において彼ほど貴族的な体質を持った建築家はいない。レイナー・バンハムがいみじくも指摘したように、ミースのバルセロナ・パヴィリオン以前、モダニズムは空間的なグレードを表出する術をもたなかった。バンハムは建築のスタイルというものは、さまざまな空間的グレードを表出できなければ、完全なものとは言えないと考えた。ミースは一面において空間的デモクラシーをその基本とするモダニズムのチャンピオンであるが、もう一面において、階級性こそが空間に不可欠の要件であることを熟知していた。モダニズムと階級性の統合こそ、ミースの本質でもあり、ケインズの本質でもあった。両者がともにヨーロッパに生まれ、アメリカで広く受け入れられたのは、何も偶然ではない。アメリカほどデモクラシーに対して強い幻想を抱いている国もなく、かつアメリカほど階級に対してナイーヴで、かつそれに強いコンプレックスを抱いている国も、ほかにないからである。第二次世界大戦後の世界の枠組みをつくったのは、このケインズ経済学と、ミースの「均質空間」という名の階級的空間である。 pp.90-91

・欲情するシステム

十九世紀において、場は拡張可能ではあるが、基本的には、単一であり、不変であった。その場に何を(いかなる外部を)持ち込むか、どのように変形を加えるかーそれが建築家の仕事となったわけである。言い換えれば、建築という場と外部との間の関係をつかさどるのが、建築家というエリートにふりあてられた職務であったわけである。(中略)

この構造を大きく揺るがすのは、空間の映像化であり、空間の相対化である。空間の映像化により、誰もが外部にアクセスすることができるようになった。外部はもはや建築家にとって、空間的エリートとてしての地位、権限を保証し、保全し得る力を持ち得なくなったのである。(中略)

この問題に敏感な空間の表現者は、次の二つの戦略を採用するに至った。

①空間の抽象化

空間の映像的交換、映像的消費という二十世紀的状況と同一平面上に身を置く限り、建築家はいかに個性的な表現を提出しようと、空間的エリートたり得ない。その映像的あるいは図像的交換活動の上位(メタ・レベル)に身を置くために、彼らは表現自体を抽象化し、抽象的な空間を提出する途を選択した。装飾の排除、純粋形態への志向に代表される、すべての抽象化への要請は、メタ・レベルの表現者への志向から誘導されたものである。

②エレメンンタリズム

表現を抽象的なレベルに移行させることは、一方において、自らの作家性、署名性を危機に晒す行為でもあった。映像的レベルで瞬間的に消費される作家性も危険であったが、作家性、署名性の刻印は表現者としての大前提でもあったのである。このダブルバインドに対する解答として提出されたのが、エレメンタリズムである。空間のエレメントを可視化することによって、抽象的空間上における操作そのものも可視化すること。そうすることによって空間の抽象化と、署名性の刻印とを同時に達成するというのが、エレメンンタリズムの構えだったわけである。いわゆる構成主義的方法は(ライト、コルビュジェ、ミースまで含めて)、すべてこの構えを共有している。

pp.106-108

・倒錯した近代

近代以降の建築表現の流れは透明性の表現と、不透明性の表現の抗争という形で、要約することができる。透明性の表現の根底にあるイデオロギーは、「近代性の肯定」であり、不透明性の表現の根底にあるイデオロギーは、「近代性の否定」すなわち「反近代」である。透明性の表現を担った素材は、繊細なスチールのフレームと、まさに透明な素材そのものとしてのガラスであった。一方、不透明性の表現を担ったのは石・レンガ・木といった伝統的で前近代的な「ぬくもりのある」素材群であった。近代以降の建築表現は、この二つの対照的流派の間で、揺れ動いていたのである。

ただし、日本の近代建築史は、さらに複雑な特殊事情をかかえていた。すなわち、解放的な書院造りの建築に明らかなように、日本の伝統的な建築表現は、基本的に透明性を中心的な原理として展開してきたのである。西洋において伝統的な建築表現が組積造に象徴されるように不透明性を中心にして展開し、近代表現がそれに対するカウンターとして提出されるような構図は、そもそも日本ではありうべくもなかったのである。このようなねじれを内包して、日本建築の近代はスタートした。そしてそれゆえにこそ日本の建築界に「近代」をもたらしたのは、西洋近代建築の中では傍流に属する「反近代派」「不透明派」の人々であった。すなわち十九世紀末のイギリスで反近代をとなえていたアーツ・アンド・クラフト運動の一派に属するジョサイア・コンドルが明治の日本に「近代建築」をもたらしたのである。pp.127-128

・〈私〉の終焉

 一言で言えば、建築におけるヒストリシズムがめざしてきたことは、危機に瀕した〈私〉の表現にかわって、〈私たち〉の表現を確立することだった。ミースがめざしたような社会全体の同意を得る建築を放棄して、そのかわりに閉じた〈私たち〉のなかの同意をまず達成すること。しかもその〈私たち〉は、すっかりあやしげなものになってしまった〈私〉の表現にかわって、ひとつのまとまりと安心感のある〈私たち〉の表現を行う。(……)

そしてヒストリシズム、アンチ・ヒストリシズムを問わず、七〇年代の建築家はひたすら〈私たち〉を確立することに躍起となった。七〇年代は批評の時代であったといわれるが、難解でレベルの高い批評こそ、〈私たち〉というサークルを確立し、その内部のコンセンサスを達成し高めるための、もっとも有効な道具であった。ヒストリシズムにくみする人びとも、アンチ・ヒストリシズムの人びとも、こぞって建築を論じた。それも〈私たち〉の外の人びとにはなるべくわからないようなやり方でである。七〇年代のキーワードがポストモダンであったとしたら、ポストモダンとはその自由な響きとは裏腹に、一種の〈閉じる〉ムーヴメントであり〈囲い込み〉のムーヴメントであった。モダンによって分断さあれバラバラにされた建築家の〈私〉を一種の囲い込みをつくることによって保護しようとしたのである。すべては彼らの計算通りに動いた。あやしげな一匹狼のレスラーたちは、いくつかのソフィスティケートされた〈私たち〉に再編され、〈私たち〉は徐々に社会から認知される。ただし社会に対してもっとも大きな影響を与えたのは、何といってもヒストリシズムという名の相撲協会である。(……)

ただしこの成功でもっとも困ったのは、当の相撲協会ークラシシズムを提唱した建築家たちであったと思う。すなわちひとたびこれらの〈私たち〉の表現が社会的に認知され、表現として社会に拡散されていくと、もはやそれは〈私たち〉という選ばれた者による表現であることをやめ、表現者としての〈私たち〉もまた存在理由を失ってしまうのである。(……)

その沈没のあとの前にはいくつかの選択肢が並んでいる。

①和風 集団の同意と、個人的表現を両立させる体系であるという点において、クラシシズムと比較しても遜色がない。(……)たぶん彼らは適度に成功し、かつクラシシズムと同じパラドックスを十分に味わうだろう。

②個人的表現 様式的表現主義がかくもみっごとに社会に収奪され、拡散していくのを目の当たりにして、再び〈私〉の表現が復権する可能性がある。

新・表現主義、新・開き直り主義とでもよぶべき動きである。ただし〈私〉の表現さえも、社会はただちに収奪するだろう。しかもこの場合の収奪は、〈私たち〉の表現の場合とは異なって実際的な拡散を伴わない、メディアのみによる収奪、消費、使い捨てという形をとるだろう。そしてその表現が、〈私〉の表現として突出していれば突出しているだけ、その表現の収奪のスピードは早く、表現としての寿命は短いということになる。フォルマリズム(同意の形式)と表現主義(〈私〉の表現)の統合という、近代に課せられた大きな問題には目をつぶろうというのがこの新・表現主義の立場だから、苦い結末はまた覚悟しなくてはならないだろう。

③フォルマリズムと表現主義の統合 クラシシズム(古典主義)の建築はこの統合に関しては、ある程度の成功をおさめたといっていい。同意のための道具としてはまず〈幾何学〉がある。(……)同意のためのもうひとつの道具が〈あらかじめ与えられた限定されたエレメント〉である。ペディメントやコラムなどの、与えられたエレメントだけを使って全体を組み上げていく。その組み合わせの手つきに〈私〉の表現が現れる。そういう巧妙な仕組みが採用されていた。さしあたって、この仕組みはいいモデルとなるだろう。ただしもちろんちょっとした入れ替えがこのモデルには必要である。(……)

まずクラシシズムのスタティックな幾何学を、今日のもっと動的な幾何学に置換すること。グチャグチャなもの、揺れ動くものの中にも幾何学がひそんでいる。マンデルブロートのフラクタル理論やプリゴジーヌの散逸構造論はそのような新しい幾何学を提唱し、その新しい幾何学は僕らの日常的な〈秩序感覚〉〈形態感覚〉〈構造感覚〉にも変化を与えようとしている。そういう新しい幾何学を使って、新たな同意の達成が可能ではないだろうか。そしてグチャグチャした形や揺れ動くものは、従来のスタティックな幾何学からすれば、〈表現主義的なもの〉のほうに分類されていたものである。だとすれば新しい幾何学が、表現主義的なものと幾何学的なものの、架け橋にもなり得るのではないか。(……)

もはや〈私〉の時代はとっくのとうに終焉しているし、〈私〉を保護する目的で構想された〈私たち〉という土俵を再建する途も残されてはいないのである。建築家はもはや群れることもできないほどに追いつめられている。結局のところ、〈私〉というものを根底から解体しないかぎり、建築における新しい展開はないだろう。その解体は実のところ建築家だけでなく建築自体を解体・否定する契機をもはらんでいるのである。 pp.146-151

・粛正

執務空間の美学として選択されたのは、モダニズムの美学であった。機能本位で抑圧的であるという位置づけを与えられた資本制の内部システムの空間的表現として、硬質で非人間的ともいえるモダニズムの美学ほどふさわしいものは考えられなかった。一方、居住空間の美学として選択されたのはノスタルジーであり、ヒストリシズムである。抑圧から自由な「解放区」の表現としては、「昔なつかしい暖かみのある空間」が最適であると考えられたのである。(中略)

さらに見落とすことができあにのは、この美学上の二項対立が単なる対立関係ではなく、支配・被支配の関係を内包していた事実である。二十世紀資本制の根幹にあった執務空間対居住空間という空間的な対立構造が単なる二項対立ではなく、支配・被支配の関係を内蔵していたという事実と、この事実とはパラレルである。すなわち空間的な二項対立は女性や老人といった存在を資本主義の外部に排除し抑圧するための装置であり、かつ巨大で均質な執務空間を所有することのできる大資本と、家内工業的な小資本や資本をもたない個人を峻別するための装置でもあったのである。派生的に美学的な二項対立もまた支配的な美学と被支配的な美学という構造を持つこととなる。すなわち二十世紀には一見したところでは二つの美学が共存しているようだが、実際のところ支配的なのはモダニズムの美学であり、ノスタルジーやヒストリシズムは一貫して被支配的な位置にとどまり続けた。被支配的な美学を奉ずる建築家やデザイナーは、異端の建築家とよばれればしめたものであり、たいていの場合、商業主義的デザイナーとよばれるか、さもなくば建築家やデザイナーとすら認知されないといったありさまであった。

建築家という制度を支えていたのは、実のところ美学的な支配構造だったのである。すなわちモダニズムの美学を奉じないものは、建築家という制度から自動的に排除され、この排除のシステムが建築家という制度を保証していたのである。大学の建築教育とはまさにこの制度を教育する場として機能した。非モダニズムのデザイン、すなわちヒストリシズムのヴォキャブラリーを用いたノスタルジックでメルヘンチックなデザインをする学生は、残酷なまでの批判にさらされ、洗脳される。彼らがいかに繊細な感性とすぐれた美意識を持とうが、そのようなデザインは「許されない」ことなのである。そうやって彼らは「建築」を教わるのではなく、「建築家という排除の制度」を教わるのである。(中略)

ポストモダニズムとは、まさに、この美学的な支配構造に対する異議申し立てであり、それを反転する試みであった。ポストモダニズムはかつて外資本主義的な美学とみなされていたヒストリシズムを内資本主義的な大規模執務空間、すなわち均質空間を包むパッケージとして採用した。しかも「建築家」が率先して、それを行ったのである。この試みは、ものの見事に成功した。なぜなら外資本主義的な美学に対する洋弓は、すでにはち切れんばかりに高まっていたからである。(中略)ただしポストモダニズムもまた決して永続的な運動とはなり得なかった。なぜならばヒストリシズムの美学というパンドラの箱の解放が、結果的に何を意味するかに、遠からず建築家も気づくこととなったのである。ヒストリシズムの美学解放とはすなわち「建築家」という排除制度の前提をくつがえすことであった。なぜならこの制度の目的がそもそも排除にあり、排除する対象を失えば、この制度が存続でいないことは明らかだったからである。たちまちにして、建築家には粛正の嵐が吹きまくることとなる。あらゆる制度的なものは、制度を内側から崩壊しようとするものに対して最も厳しく、過酷である。かくて、ヒストリシズムの美学は、宗教裁判の被告席に坐らされた。pp.154-156

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