隈研吾『建築の危機を超えて』

 

・建築の危機を超えて  危機は二種類のタイプの人間を生むというのが僕の直感であった。その二種類がマクベスハムレットであった。危機に際して根拠不確かな魔女の預言を盲信して、行動に対するなんの疑いも逡巡もないままに権力への道を進んでいくマクベスは、危機の本質には目もくれず、独善的なコンセプトにしがみついてエゴイスティックな自己表現の建築を建て続ける建築家そのものに思えた。一方、ハムレットの優柔不断に対しては強い親近感を覚えていた。ハムレットは確かに王子ではあったが、母と母の愛人によって父王を殺された彼の状況は、まさに危機と呼ぶにふさわしいものであった。その状況のなかでは、どの行動を選択しても、だれかを深く傷つけることは間違いないように彼には思えたのである。建築も同様にどのみちだれかを傷つける、罪悪そのものであると僕には思えた。その状況のなかで、どこに向かって剣を突きだしていいかもわからずに立ちつくすハムレットの対応こそ、最も誠実なものに見えたのである。 pp.16-17 ・ニヒリスト・女・建築  ニヒリストにとって建築もやはり女のごときものであった。建築もまた世界をにおわせ、彼自身の強烈な観念性から彼自身を救いだす「物」の確実な実感が建築にはあった。ニヒリストは女を愛すか、建築を愛すか、あるいはその両方を愛した。両方を愛したニヒリストはエウパリノスとも呼ばれた。しかるに実際のところ女(建築)がニヒリストに与えてくれるものは、このクソつまらない日常生活の肯定にしかすぎず、ニヒリストは孤独の量を倍加させられ、女のわがままの前に膾のごとく切り刻まれる。あるいは現実と格闘して血ヘドを吐く。たとえそれが美しい脚をもったコリントスのお嬢さん相手だろうと。そしてたとえ近所の丘の上にちっぽけなヘルメス神殿一つ建てるにも。そこがまさしく女の詐欺である。あるいは建築というワナである。ただしこの種のたいして新しくない問題は解決がなくて、ニヒリスト氏においてもこれを妥協で糊塗するしかない。  むしろニヒリストにしてみれば、女の詐欺などはじめから軽くわかっていた。あの口もとのかすかなほほえみの裏に、永遠も絶対も隠されていないことなど百も承知だった。そして建築が権力への卑しくもむなしい意思を物象化したものにすぎず、そこもまた永遠や絶対とは縁遠い世界であることも、先刻お見通しだった。それでも彼が自らの虚無の救いを女(建築)に求めたのは、彼が軽率だったからには違いなくても、それは軽率に耐えうるだけの体力がニヒリストにも備わっていたということである。  女も建築も愛し続けなくてはいけない。最初からこうなることは見えていたのだから。 pp.197-198 ***  

若き隈研吾の驚くほど感傷的な文体のエッセイ集