河合隼雄、中沢新一編『「あいまい」の知』

  

中沢 宗教って何だろうなって考えると、この社会の表舞台に入れない、あるいは引いてしまった人たちがつくるものですが、そうやって入り込んだ自分たちの世界を、別の明確な目的をもった世界へと整地するのですね。別のロゴスの世界をつくるわけです。そういうロゴスの世界をつくって、その王国の中では彼らは完璧な人生を送ろうとします。この世界をつくっている原理に対しては、それを汚れた世の中であると否定しちゃえばいいわけですし。しかし、どちらも同じ原理の反転のように見えますね。そうすると僕は宗教学者ですが、いちばん嫌いなのは宗教かもしれないと思います。魔術は宗教ではありません。長い間かかわって蓄積されてきた知識の体系ですから。 p.289

中沢 イエスも自分は神が予言したことを完成するためにきたのであって、ユダヤ教を否定するためではないといっていますね。完成するためだと。本物の宗教であるというのは、すっと宗教を抜けていって、野の花、空の鳥と一体になってしまうようなところへ出て行くことですが、そこには体系など必要ではありません。宗教以前、宗教以後にあるものこそ、ほんものの宗教だ、と。

河合 それは既成の体系から見ればあいまいと呼ばれているんだけれども、その中で見たら、何にもあいまいじゃなくて、ピッタリ決まっているわけですよ。しかし、その決まり方が一般常識とか自然科学の決まり方を違うわけですからね。

中沢 奥義とか極意ですね。職人さんの仕事とか芸人さんの芸にあるものですね。昔の知識体系は、キーポイントはそういう極意でできています。フロイトユングも極意の人でした。河合先生もきっと極意の人。 p.291

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 この前、矛盾と多義性について述べたけれど、この中沢さんの言ってることに本当に共感する。現代社会における勢力的価値は、科学や合理的志向であり、宗教や合理性では割り切れない価値といったものは、ある意味においては社会の表舞台に入れない周縁の価値ということになってしまうのだけれど、そのような社会の中心から排斥された周縁にある価値を重視する人々が、多くの場合においてまた排他的な世界を築き上げているということは本当によくある。

 近代科学はその合理性を突き進めていって世界を一元的に理解し、秩序づけていこうとする性格があるのだけれど、宗教においても同様にある閉じられた論理で世界を一元的に理解し、それに反する価値や真理の存在に対しては否定的になることがよくある。近代科学やテクノロジー原理主義者も新自由主義原理主義者も宗教原理主義者もあるロゴスの中で完璧に閉じてしまっている点において、似た者同士だと感じる。ある閉じられた世界を作り上げてしまって自己完結してしまうと、その論理で説明できないものの価値を認めたがらず、極めて排他的になっていく。クリスチャンが神社仏閣に対してサタンが住んでいるといったり、金銭や自己利益を追求する人々を汚らわしいと批難したり、聖書を後ろ盾にして自分の価値観を他人に押し付けたりする様子などはその典型的例だと思う。挙げ句の果てには他の宗教に対してだけでなくクリスチャン同士が「愛」や「平和」についての聖書解釈をめぐって論争している様子なんかはもうほとんど喜劇に近い。自分の信じる価値にコミットすることは大切だけれど、自分の信じる価値を相対的に捉え直そうとする姿勢や他の価値の存在を認める姿勢が一切欠落している人は、その人の価値観と同一化しない限り究極的にはコミュニケーション不可能であると思う。たとえ相対化する姿勢がなくても自分の信じる価値を他人に対して押しつけず、自分の中で完結しているのならばまだいいのだけれど、そのような相対化の姿勢が欠落している人は往々にしてほとんど無自覚に自分の思想を人にも押し付ける。何もかもを相対化してしまって、どの価値にもコミットしないことも多いに問題であるけれど、メタな視点なく一つの価値にコミットして他人にそれを押し付ける姿勢も問題が多い。相反し矛盾する価値の存在を認めること、割り切れない曖昧さの価値を認めていくことは、河合隼雄がいつも言っていたことだけれど、一義的な明快さを求めず、ある種の「居座り心地の悪い」状態への耐性をつけていくことが、今後も課題になり続けるのではないだろうか。そして、自分も価値の押しつけならぬ「相対化」の押しつけをしてしまわないよう、気をつけねばならない。