河合隼雄『昔話の深層』

   

 怠け者が成功するのみならず、そこにずるい知恵まで加わるとなると、われわれ日本人にすぐ思い浮かぶのは「三年寝太郎」の話であろう。これにはいろいろなバリエーションがあるが、山梨県西八代郡で採集されたものをとりあげてみよう。昔あるところに二軒の家が並んでいた。東の家は大臣であったが、西の家は貧乏であった。西の家では父親が死んで、母親とひとり息子がくらしていた。ところが、この息子が怠け者で食っては寝てばかり、「くっちゃね」と呼ばれていた。この怠け者の男が二十一歳になると大活躍を始める。神主の格好をして東の大臣の家にしのびこみ、神棚の上に隠れる。そして、夕飯時に跳び降りて、おれはところの氏神だ、きさまのところの娘と西の家の息子とは夫婦にしろ、と告げる。これが、まんまと成功して、彼は大臣の娘と結婚し、家も上等に建てなおしてもらったという。これは民話の怠け者であるが、わが国には類話が多くあり、御伽草子の「物くさ太郎」など、その代表であろう。p.97

 『荘子』の人間世(じんかんせい)篇には「無用の用」という印象深い章がある。それをここに紹介してみよう。大工の石(せき)は旅行の途上で、巨大な櫟(くぬぎ)が神木に祭られているのを観る。その幹の太さは百かかえ、高さは山を見下ろすほど、木陰に何千頭もの牛が憩うことができるほどのものである。しかし、石はこれに一瞥もくれなかった。それは、この木が舟をつくれば沈むし、棺桶をつくれば腐る、柱にすれば虫に食われるという具合に、まったく無用の大木であることを知っていたからである。ところが、石が旅行から帰った夜、夢に例の櫟が現われ、次のように語った。おまえはいったい自分をどうして無用というのか、どうせ人間に役立つ木と比較したのだろう。しかし、考えてみると果実のなる木は果実の故に、もぎとられ枝を折られして、天寿を全うできない。結局は、自らの長所が自らの命を縮めている。有用であろうとして愚かなことになっているのだ。これに対して自分は無用であろうとつとめてきたのだというのである。(中略)石は、無用の用の意味を悟のである。p.103

 人間の意識は常に進歩を求め、効用の大なるものを求めて努力をつづけてきた。しかし、それはともすると一面的なものとなり、安定性を失ったものとなる。これに対して、大工の石が櫟から教えられたことは、自らの運命を素朴に充足させて生き、何かのためになどと考えることのない生き方が、いかに偉大であるかということであった。これは、無為の思想である。p.104

 自分に対してふりかかってくる運命に対して積極的に闘ってゆくこと、これは男性の原理である。これに対して、運命を受けいれること、これは女性原理である。この両者はどちらが正しいと言うことはできない。しかも、両立しがたいものである。

なお、ここで男性原理、女性原理と呼んでいるのは、確かに男性のほうは前者の考えや生き方が比較的わかりやすく、女性にとっては後者のほうが親近性を感じやすいことを意味しているが、これは、男性が前者を、女性が後者を選ぶべきであるとか、ねばならないとか言っているのではない。おそらく理想としては、この両立しがたい原理がひとりの人格のなかに統合的に存在することであろう。p.106

 怠けが創造的退行につながることを示すものに、怠け者が動物の声を聞いたり、偶然のことをうまく利用したりして成功する話がある。わが国の「みず木の言葉」という話では、主人公は怠け者で、柿を食べたくなったが木に登るのがうるさいので、柿の木にむしろを敷いて仰向いて口をあけて寝ていた。まさに「果報は寝て待て」を地で行ったものと言うことができるが、こうしていて彼が烏が二羽話しあっているのを聞き、それをもとにして長者になることができるのである。p.108

 ここで大切なことは、烏の話し声というのが他の人の耳に入らず、怠け者にのみ聞こえたということである。常識の世界に忙しく働いている人は、天の声を聞くことができない。怠け者の耳は天啓に対して開かれている。このように言うと、私の心には現代の多くの「仕事にむかって逃避」している人たちのことが思い浮かんでくる。これらの人は仕事を熱心にし、忙しくするという口実のもとに、自分の内面の声を聞くことを拒否しているのである。p.109

 臨終の床の臨んだ王さまが、最もものぐさ者に王位を与えようとした秘密もこれで明らかである。男性原理のみによってできあがっていた王国は新しい変革を必要とし、そのために必要な女性原理を最もよくとりいれる可能性のあるものは、最大の無精者であると考えられる。無精のため命を棄てるほどの者のみが王位継承に値したのであろう。p.109

 昔話のなかの怠けの意味の追求は、相当な怠け礼賛に到ったが、私は何も怠けの否定的な面を忘れているわけではない。既に述べた男性性と女性性の原理のように、人生は多くの相対立する原理の微妙なからみあいによって成立しているので、いつの場合にも通じるひとつの原理など見出せるはずがない。p.111

 

 このような観点で昔話を見ると、ある主人公は約束を守って成功し、ある主人公は約束を破って成功する。あるいは、危険に立ちむかって成功するもの、逃げて成功するものなど、必ず相反する場合を探しだすことができる。p.111

 この点について、フォン・フランツは「おとぎ話のなかから唯一の方策をひきだすことは絶対にできない」と確信している。p.112

 昔話は実にうまくできていて、怠け者礼賛の話があるかと思うと、その否定的な面を描いたものも必ず存在している。自我が弱く、そのときの状態まかせになりすぎると、せっかくの怠けも無意味であることは、日本の民話「天にのぼった息子」にうまく描きだされている。p.112

 なお、怠けといっても、いわば積極的な怠け者ではなく、ただ他人の真似をするということは、自分の創造性の放棄という点で消極的な怠けとも考えられるが、これに対して昔話は実に厳しい仕打ちを与えることは周知のとおりである。p.113

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 「既に述べた男性性と女性性の原理のように、人生は多くの相対立する原理の微妙なからみあいによって成立しているので、いつの場合にも通じるひとつの原理など見出せるはずがない。」