「思想における極端さについて」

   

 正論や一般論、もしくはある一面における真理のことばかり説くことは確かに暴力的であるが、あらゆることに対して異なる立場ばかり示すことも同じように暴力的で単なる権威への反発か既存の思想の裏返しでしかない。あらゆることには二面性があって、一方だけを立てると一方が立たなくなる。効率やスピードも大切であるし、同様に無駄や非効率や大切である。成功を経験することも大切であるし、挫折や失敗を知ることも大切である。同じことこつこつやり続けるのも大切だし、異なる要素を結びつけることも大切である。極端なもの、一義的なもの、明快なものにひとは惹かれてしまいがちだし、何か一つの普遍の真理を求めてしまいたくなるのだけれど、世界は矛盾に満ち満ちていて、その矛盾を認めながら成熟を目指すしかないのではないだろうか。

 日本人論などに出て来るアイデンティティについての議論でも同様で、自分は常に他者との関係性のなかに出来上がるとか、確固たる自我なんて確立しなくてもいい、自分というのはもっとあやふやなものなのだ、というようなことを論じる人がいるけれど、西洋的なアイデンティティの確立を一時期追い求めた人が、それを諦め単に反対の極に走ってしまっただけのように見える。あらゆるものを相対化し、あらゆるものを俯瞰して捉え、どのような思想にもコミットしない人が行き着く先はニヒリズムしかあり得ないし、そのようなニヒリズムや無思想性を日本の伝統だからといって素直に認め従いたくはない。

 西洋的な確固たる強い自我の確立がフィクションであると同じように、東洋的な何物にも普遍の価値を見出さない諸行無常の世界もフィクションであると考える。自分の思想や言動に確固たる自信を持ち、断定的な物言いをする人間は多くの場合において矛盾する真理の存在に非寛容であるし、逆にあらゆることに懐疑的、批判的でどのような立場も取ろうとしない人間が行き着く先はニヒリズムしかあり得ない。極端な思想、ラディカルな思想は常に衝突を生む。かといって全てを相手にあわせて、その場その場で立場を決めていてはニヒリズムに陥る。不安が強くなると時間空間を超越した永遠普遍の宇宙の真理を求めて無矛盾な体系を築き上げたくなる、もしくは逆に全てを相対化してしまって徹底したニヒリズムに陥りやすくなるのだろうけれど、そのどちらの態度も極端にみえる。時間空間を超えた無矛盾な宇宙の真理は確かに存在しなさそうだけれど、かといって万物は流転するばかりで一切の秩序は存在しないというのも嘘であろう。自然科学や宗教における真理は一面においては確かに真理であり、同時につねに矛盾を孕んでいてそれでは説明できない部分が必ず存在する。そのような矛盾の存在を認め、常にその時その時における真理を求めながら少しずつ成熟していくしかないのではないだろうか。それはこのような思想自体が極端かもしれないというエンドレスな問い直しに必然的になってしまうのだけれど。