向谷地生良、辻信一『ゆるゆるスローなべてるの家』

  

彼らがさまざまな問題や、いろんな弱さを抱えていることに対して、専門家が働きかけをして彼らが立ちあがるのではなく、むしろ逆に、彼ら自身がもっているものによって社会が生かされ癒されていくという、そっちのほうが正しいのではないかと私は思ったんですね。私自身が実際にそうだったのですから、まぎれもない実感としてありました。 p.58

「弱さによってこそ、自分は世界とつながっているんだという確信。中学生のころのそういう思いが、浦河における自分の居心地のよさに通じたということでしょうか。」

「はい。」p.60

べてるの家障がい者のための社会復帰のための場所です、と説明づけるのと、この場所は、たまたま精神障がいをもった人たちが、地域の人たちといっしょに町づくりのために活動をはじめた拠点です、というのではぜんぜん見え方が違ってくる。 p.95

打算に対する愛、強さに対する弱さを論じながら新しい経済社会のあり方を構想しようとしている。新しい社会をつくる力の源は、「弱さ」にこそある、と。その意味で、べてるがうちだした「弱さの情報公開」や「弱さを絆に」というのは、新しい社会のあり方を先取りして、鮮やかに指し示してくれているそうです。 p.104

人のつながりが酸素だとしたら、もし、人のつながりがなくいなったら息苦しくなって、自分は絶命するという危機を感じる。そのときなにをするかというと、椅子を持ちあげて窓ガラスを割ったり、ドアを蹴破ろうとする。(中略)で、人のつながりというのは、さっき言ったような「弱さ」を遠してしか確保できない。人のつながりを手に入れる入口は、「弱さ」なんですよ。p.105

精神の病はかならず人と人の対立や亀裂があり、関係が壊れるというかたちで表面化するんです。「対立」、「破壊」、「喪失」そうしたかたちで精神障がいがもたらされるんですが、それが回復してくるときの私のイメージが「和解」だったんです。回復するときにある種の和解が生じる。p.113

統合失調症の人というのは、自分のいのち、つまり生物学的ないのちの実感も、いのちの永遠性もどちらも実感できない。その孤立感と実感のなさの中でうろたえている人たちなんですね。(中略)統合失調症の人の危機の中に、じつは時代の危機が反映されていて、私たちにいのちの実感があるのか、あるいはいのちの永遠性を実感できているのか、という問いを投げかけている。彼らは危機を伝えるある種のカナリア的な存在です。 p.128

経済が崩壊したときにでも、絶望しないでなんとか生きてほしいと思うしかない。そういう意味で、このシステムから全面的に降りることはできなくても、できるところから日々小さく降りるというか、そこに自分の全存在をかけてしまわないようにしてほしい。 p.150

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