京大生・教員ほか『ゆとり京大生の大学論』

  

佐伯啓思 

 私はこのような学生運動の「大学解体論」には組しません。いや、「大学解体」どころか、すでに「大学崩壊」に入っているように思えるのです。どうして崩壊したのか。その理由は二つあります。

 1.ポストモダン状況 一つは、学問そのものの内的な理由で、それは、社会人文系の場合、もはや「真理」や「本物」といった知の基軸がほぼ消滅してしまったからです。フィクションであれ、「大きな物語」であれ、何か「真理」へ向かう「オーソドクシー」があるからこそ、それに対する異端も意味をっもち、反抗も意義をもち、そこからある種の緊張感も論争も生み出されたのです。その「オーソドクシー」がほぼなくなってしまった。

 そうすると、残ったものは、ただ形だけになって内容空疎になった学問的権威を守ろうとする権威主義か、もしくは、広く散らばった好奇心の赴くままに、やたら細かく「オタッキー」なまでに多様な「専門分野」を次々とうみだしてしまうか、です。前者は、もっぱら学問世界でのポリティックスへと堕してゆき、後者はもはや社会や人間の生、あるいは文明という「大きな図式」との連関を見失ってしまいます。これでは研究者本人の知的好奇心は満たせるかもしれませんが、それがその人の「生」とどのように交わるのか、という緊張を失ってしまう。端的にいえば、そもそも今日のような「ポスト・モダン状況」のなかで、大学や本来の「知」というものはありえるのか、という疑問がわいてくるのです。「教養」などというものは、もうすでに成り立たなくなっているのはないでしょうか。

 2.大学の商業化とサービス化

 第二は、それと関連しますが、この二十年ほどの間に、国立大学の民営化も含め、大学の商業化、サーヴィス化がいっきに進みました。大学はことさら「社会に対して役にたつ」ものでなければならなくなったのです。それは一方で、学生教育というサーヴィス提供へとシフトするとともに、他方では、学問そのものを実践的なものとし、功利的で成果主義的な観点からもっぱら評価するという風潮をうみだしました。これはいうまでもなく、一九九〇年代以降の市場競争主義、新自由主義規制緩和などという社会の動きと連動しています。大学も、もはや「無駄」で「余計」なものであってはならないのです。「余計」なものは淘汰されるのです。 pp.27-28

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 ポストモダン状況では形骸化した権威主義か、ばらばらに分散したサブカル化かしかない、という話は、前回のコミットメントとデタッチメントの話とも多いに関連する。

 明治以降中心を担ってきた東大ですら、少なくとも建築の分野ではポストモダン状況のなか、これからの社会で中心を担うべきオーソドクシーというものはずっと模索状況にあり、むしろモダニズムの思想へと回帰しつつあると言える。中央の求心力が弱まっているのだから、若者が反抗しようにも反抗すべき対象がなく、個人的な興味の赴くままに「専門化」していくしかない。しかし前回も言ったように、何にも身体を賭けてコミットせず、デタッチしたまま様々な分野への興味をつまみぐいしている状況に、なにか大きな可能性があるとは思えない。